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〔シリーズ〕私のモンゴル(1)

−モンゴルに出会う/忘れえぬ人々−

三秋  尚

 真っ赤に燃える太陽が地平の果てに沈み,残照を背に羊の大群を追う騎馬の牧童が家路を急ぐ。暮れ泥む夏の日,真白いゲル(移動式住居)は次第に黒色に変わり,夕闇の中に消えていく。これは私が15歳の時,未知なる蒙古(モンゴルの漢字音写)草原に寄せた心象風景である。
 この時期,私は岡山県立高松農学校の生徒であり,畜産の授業で仙石信久先生から蒙古の牧畜の話を聞き,彼の地の風景を心に描いたのである。当時,わが国は満蒙大陸に進出し,昭和12年,内蒙古の徳王(政治家,独立推進者)を支援し蒙古連盟自治政府の樹立に力を尽くした。その2年後,関東軍はノモンハン事件でソ連・モンゴル連合軍と交戦して大敗北を喫し,昭和14年9月16日停戦協定を結んだ。しかし国策としての満洲・内蒙古の植民地化政策は続けられていった。
 小作・自作農の長男に生まれ,跡取りとなるはずの私は,家族の期待を裏切り,進学して獣医学をかじり,畜産学を専攻したのである。それは,上述の心象風景が私の心の襞に深く染み込み,牧童のシルエットに自らの姿を重ね合わし,蒙古草原で羊飼いになりたい,という思いからであった。
 しかし,私の心象風景を原風景に移し換える機会は,昭和20年8月の「ポツダム宣言」受諾によって遠のいてしまった。私は,ただ,心の声に耳をすまし,見果てぬ夢に向かって進むだけであった。未知なる遊牧草原への扉を開いて下さった仙石信久先生は,私にとって忘れえぬ人であり,歳月は先生の面影を濃く残して通り過ぎていった。
 昭和21年頃,外地から引き上げ,母校を訪れる先輩諸氏から海外事情について拝聴する機会があった。その1人,占野靖年氏(後の農林省畜産局課長)の内蒙古の牧畜の話題は,私の心象風景に触れる部分もあって魅力的で,蒙古を夢見るに事欠かなかった。後日談になるが,今から数年前,占野靖年氏から電話があり,20数年ぶりの肉声が届いた。当時『畜産の研究』誌に連載講座として掲載中の拙稿「モンゴルの遊牧草原」が同氏の目にとまり,大いに激励されたのである。私は同氏との奇しき因縁を感じ,受話器の向こうに忘れえぬ人の姿を思い浮かべたのである。
 昭和37年,私は岡山県立酪農大学校在職中,惣津律士校長および花尾省治課長と同じ屋根の下で暮らす時期があった。毎晩のごとく雑談に花を咲かせ,その話題はしばしば,お二人が共有する昭和13年頃の華北産業研究所や北京湯川公館での出会いと内蒙古畜産資源調査に関する仕事の回顧談におよんだ。それはしかし,私にとっては非常に新鮮であり,牧畜原像の地を訪ねてみたい思いを押さえることはできなかった。
 昭和40年代,私は岡山大学農学部で中江利孝先生と肝胆相照らす仲となり,モンゴル人民共和国における牧畜の調査研究を話題にし,彼は入念な調査計画書を作成した。昭和49年の国交樹立前後の頃で,しかも社会主義国であり,ビザは容易に下りなかった。しかし,日本モンゴル学会の強力な支援もあって,昭和51年夏と翌52年の冬,中江利孝教授を調査隊長とする私たち4名は同共和国に入国することができたのである。
 抜けるような群青の空の下,真夏のゴビ大草原で強烈なハ−ブの香りに包まれ,彼方に白く輝くゲルを望み,牧童のかけ声が軽やかに草原の風に乗って運ばれる風景に私は言葉を失い,息を詰めた。その風景には,36年前の私の心象風景には感じられなかった,自然草原に生きる人々の暮らしの温もりがあり,「草原と家畜と人」の共生の細やかな息づかいがあふれていた。
 昭和52年冬,私は首都の「ウランバ−トルホテル」のレストランで,小貫雅男教授(大阪外国語大学,当時はモンゴル国立大学交換教授)に初めてお会いする機会を得た。この出会いは後に,同教授が企画された平成1年から同5年まで,毎年夏季に実施された「日本・モンゴル共同・ゴビ遊牧地域研究調査プロジェクト」への参加につながったのである。
 同プロジェクトの初年目,モンゴル人民共和国の中央部から北西に走るハンガイ山脈周辺部5000キロの調査旅行は,同国が初めて西側諸国の研究者に許可を与えた画期的なものであった。ゴビの半砂漠草原,純草原,森林性草原と多様な自然にふれ,その大地で暮らす多くの牧民と出会うことができた。この旅で私の遊牧世界への眼差しは熱くなり,同時にその揺り返しで,自国の自然や社会,文化を改めて眺め,考えたのである。
 そして最終年の1年間は,小貫雅男教授および大学院生3名とともに,ゴビ山岳部の遊牧社会にどっぷりつかり,牧民と共に暮らす機会に恵まれたのである。この好機に私は待ち焦がれた少年時代の牧童の夢を果たすことができた。四季折々に牧家に居候をして,ラクダ,馬,牛,ヤク,羊・山羊のそれぞれの大群を追う日々は,余生少ない老骨にとってまさに至福の一瞬一瞬であった。
 私は,焼けつくような炎天下で,また粉雪の舞う寒気の中で,日の出頃から夕暮れ時まで家畜群に付き添い,アジアの深奥部辺境の地で倹しく生きる人々の笑顔を思い浮かべながら歩いた。しかし,私の脳裏には遊牧文明と現代工業化文明がしきりに交錯し,市場経済化の大きなうねりのもとで遊牧民の未来にかかる暗雲を恐れずにはいられなかった。
 ともあれ,5年間にわたる上述のプロジェクトへの参加によって,私のモンゴル世界は,草原と牧畜のささやかな研究域に基軸を置きながら,人々の暮らしの文化,地球防衛の視座に立つ遊牧文明に向かって花開く道筋を見つけることができたのである。
 このプロジェクトでは毎年10名前後のモンゴル人研究者や学者との交流があった。その中で初年目から参加された科学アカデミ−会員P.ツェレンドラム博士(牧地・牧草学専攻,国立牧畜研究所部長)は私のかけがえのないカウンタ−パ−トであった。私のモンゴル草原に関する研究の多くは彼女との共同研究であり,慈愛深い彼女の親身も及ばぬ指導と助力を忘れることはできない。
 最後に,10年前,1年間の生活をともにした「バンバロ−シ」もまた獰猛なモンゴル犬ながら忘れえぬ友に加えねばならない。モンゴル犬は家畜の看視や誘導用ではなく,ゲルの周辺をテリトリ−とし,そこへ侵入する人や狼などに対し猛烈に吠えたて,飛びかかり,家人と家畜を防衛する。平成13年8月,3年ぶりの旅で再会したこの友は,私にそっと近づき,我が老体に身を任せ,安らかな寝顔を見せてくれた。

 蒙古犬の遠吠えつづく冬の夜