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〔シリーズ〕私のモンゴル(3)

─同胞抑留者の築いた首都─

三秋  尚

空路4時間の旅

 中国の陰山山脈を越え,白雲に隠れたゴビ平原を飛び続け,ようやく高度を下げた機体の向こうにこつ然と高層ビル群が現れる。蛇行するトーラ川沿いの黄緑の草原に機影が映り,点在する真白いゲルが拡大されると,間もなく飛行機は草原に翼を休めた。ここはモンゴル首都圏の国際空港バヤント・オハー,関西国際空港から直行便で4時間の行程である。草原の真っ只中に伸びる1本の滑走路からは大阪,北京,ソウル,フフホト(中国内蒙古自治区),モスクワ,イルクーツク,ベルリン,香港への便が飛び立っている。
 ゲルの点在する遊牧草原には異質とも感じられる近代的な空港から北東へ15キロ,南に連なる山々の緩やかな裾野を首都の中心へ向かって舗装道路が走り,車窓には牛や馬の群れと長い馬捕竿を左手小脇に抱えた騎馬の牧人が矢継ぎ早に映り,発電所の大きな数本の煙突が見えると間もなく中心地である。
 首都はウランバートル(赤い英雄)と呼ばれ,ロシアとの南東部国境沿いを走るヘンティー山脈の西麓にあって,その山脈を源流とするトーラ河畔で,四方を山々に囲まれた盆地にある。

門前市からの出発

 首都の起源は古く,1639年(江戸時代初期),ハルハ系モンゴル民族(モンゴル国人口の約80%を占める)のザナバザル(1635〜1725)が初代ラマ教の活仏に推戴されたのを記念して,現在のウブルハンガイ県シレート・ツァガーン・ノールの地(オルホン川流域)に宮殿を建造したことに始まる。
 ちなみにウブルハンガイ県の北部にはモンゴル帝国の首都カラコラム(ウランバートルの東方約340キロ,オルホン河畔にあり,1235年第2代皇帝オゴディ・ハーンによって建設)の旧蹟には1586年建造された大寺院エルデニ・ゾーの仏舎利塔,漢民族式やチベット式の建築物の一部が今も残っている。 チベット仏教(チベットで発達した仏教,ラマ教)のモンゴルへの公伝は,1247年,オゴディ・ハーンの皇子ボデンがチベットから令名高き高僧サキャ・パンディタを招いた時に始まる。1368年,元朝(第5代フビライ・ハーンがカラコラムから北京に遷都し樹立した中国風王朝)は明朝によって滅ぼされ,モンゴル高原へ敗退したあと,高原の南部(内蒙古)で勢力を盛り返したアルタン・ハーンは,チベットから高僧ソナム・ギャンツォを招き,最初のダライ・ラマの称号を奉った。ダライ・ラマは活仏(ボグド・ゲゲン,生き仏)として尊崇され,多くの活仏はチベット・モンゴルの2国関係の中で生まれた。上記したモンゴルのザナバザルも,そうした状況の中で誕生した活仏である。
 活仏の住む宮殿は遊牧民の伝統に従い,国土の北部を流れるオルホン,トーラ,セレンゲの大河川流域を30回も移動しつつ大寺院へ,さらに町へと発展し,1778年,現在のウランバートルの地に移り定着した。寺院の門前市は1700年代初期からイフ・フレー(大きな囲い)と呼ばれ,漢人はクーロン(庫倫,フレーの音写),ロシア人やヨーロッパ人はウルガ(活仏の宮殿<オルゴー>に由来)と呼んでいた。1911年の辛亥革命により外蒙古(モンゴル高原の北部)は独立を宣言し,第8代活仏を帝位に推してモンゴルに政府が組織され,ニースレル(首都)・フレーと改称された。
 同地はラマ教の総本山として,また政治・経済の中心地として発展するようになり,内陸アジアの国際的な通商拠点のひとつに成長した。1921年,ソ連の援助下で人民革命に成功し,革命臨時政府を樹立した。その後1924年,活仏の死を契機にモンゴル人民共和国を宣言し,同時に首都名をウランバートルと改称した。当時(1918)の首都の人口は6万3千人,うちモンゴル人3万2千人,漢民族3万人,その他との報告がある。

同胞抑留者の築いた首都

 人民革命以降,ウランバートルはソ連をモデルに社会主義国家の首都として,ソ連の支援下でロシア風の都市に生まれ変わっていった。1945年8月9日,ソ連はポツダム宣言第9項に違反し,日本人約60万人をシベリアに抑留し,そのうち1万2千700人をモンゴル人民共和国に分け与えた。ソ連によって実質上戦争奴隷としてモンゴルに送り込まれたわが同胞は,ソ連の同盟国として満洲国侵攻に2万人を動員し従軍したモンゴル国への褒賞である。
 シベリア抑留モンゴル組は,満洲から家畜運搬車輌に詰めこまれ,シベリア鉄道経由で約2ヵ月の旅を終え首都に到着した。1944年,総人口は75万9千200人,首都人口3万5千500人の3分の1に相当する同胞抑留労働者の受入れは首都建設の成功を約束することでもあった。
 同胞抑留者は煉瓦焼き,石灰岩山から生石灰を掘り出してモルタル作り,トーラ川沿い山腹からの石材の採掘,上流の森林から木材の伐採と製材など,建築資材の調達に従事した。また,ソ連技師の指導で,日本人技術者が監督し,現在の政府庁舎,科学アカデミー,国立大学,オペラ劇場,スフバートル広場など首都の主要建設事業を施工した。
 およそ2ヵ年間に及ぶ首都での建築作業の進捗状況は,故・胡桃沢耕史が自らの体験をもとに記した直木賞受賞作『黒パン俘虜記』の次の行文からも,うかがい知ることができる。我々同胞は「砂漠をトラックで運ばれ,この首都に到着したときは,川(トーラ川,以下の括弧内 筆者注)の両側の平地には,白いきのこのようなフェルトの天幕と,朱塗りの柱のラマ教の寺院と,3階建ての政府の建物が3棟あるきりだった」10〜11頁)。そこで「大統領閣下(親ソ派チョイバルサン)は,革命達成25周年を記念して,この川の両岸の天幕の集落を,自分がときおり参勤する大祖国(ソ連)のあのすばらしい首都(モスクワ)と同じように,中央に分列行進ができる広場を作り,回りに官庁,大学,劇場などのある都市にしたいと考えた」(17頁)のである。
 当時「首都とは名ばかりで,川の両岸にフェルトの移動天幕が並ぶ集落にすぎなかったこの平地が,都市らしい外観を見せだしたのは,その年(昭和20年)の11月から翌年の5月にかけて行われた,猛烈な労働の結果である」(16頁)。翌21年「5月1日が来た。帝国側の督励と,収容所側の協力で,すべての予定作業は前日で終わった。新しいビルディングが10も建ち,道路や広場(スフバートル広場)は美しく整備され,中央の銅像(建国の父スフバートルの記念像)は今にも馬が動きそうに見事だった」(48頁)。
 しかし,抑留者の強制労働はすさまじく,乏しい高梁や粟の粥と黒パンの食料で飢えをしのぎ,死と隣り合わせで働き続けたのである。苛酷な労働に駆り出された同胞抑留者の死にゆくさまが,『黒パン俘虜記』に淡々とした筆致で記されている。「ぼくたちにとって,一切れであっても朝の粥に入っている肉は大変な楽しみであり,その大小は1日中頭の中をしめる喜びや悲しみでもあった」(151頁)。そして「まあ,おれたちは,ある朝,自分が死んでることに気がつくまで1日だって,仕事は休めない運命だな」(55頁)とあきらめ,「誰も気がつかぬうちに夜ひっそり死んでる者がよく出るが,すぐ分かった。どんな場合でも,それまで体中にびっしりとまつわりついていた虱(しらみ)が一斉に逃げ出す白い列が見えて確認された」(34頁)のである。
 1999年現在,2年間で1686人の抑留者の死亡が確認されている。故・司馬遼太郎は『草原の記』の中で,「この街(ウランバートル,筆者注)の灯が,ときに死霊が点々とともすほむらのようにみえる」(63頁)と述べている。私は1976年の旅で,スフバートル広場南西側に建つ中央郵便局沿い歩道で「松本中隊」と刻まれた縁石に出会った。刻み付けた同胞の運命は分からない。ただ,私にはそれが墓碑銘のように思えてならなかった。翌1977年にやっと政府の許可を得て,首都郊外の日本人墓地に眠る英霊に祈りを捧げたのである。
 現在,首都ウランバートルの公表人口は85万人,無許可住民を加えると100万人といわれる巨大都市である。近代化という魔性の潮流は,外国からの経済的援助を促し,その投資のもとで肥大化を続けている。
 スフバートル広場に立って,心の声に耳をすませば,巨大首都の礎石となった抑留者の鬼哭の声が,広場の地底から聞こえてくる。私たちは今,抑留死者の慰霊のためにも,恩讐を越えて日本・モンゴル両国間の友好交流の環を広げなければならない。

春暁や声一つなき山羊の群れ

スフバートル広場
モンゴル人民革命党の創設者で,建国の父とされるスフバートル(右手銅像)を記念した広場。1991年写す。
オペラ劇場
スフバートル広場の一角を占める。後方はランバートルホテルなど。1976年写す。
日本人墓地
ウランバートル郊外にある日本人墓地の1つ。この墓地には835柱の遺骨が埋葬され,モンゴル人の墓守りがいる。1977年写す。