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〔シリーズ〕私のモンゴル(6)

−首都ウランバ−トルは今(3)−

三秋  尚

怒濤の勢いで消費文明化

 モンゴルは1992年1月,新憲法制定により社会主義国家から自由主義国家へ,計画経済から市場経済へと大転換した。今から10年前までの15年間,主にシベリアのハバロフスク,イルクーツク経由で入国した私の視線には,これらの都市と同じロシア様式の建物が並び,都市計画のゆきとどいた清潔な首都の表情があった。社会主義国で見かけるスローガンがあちこちの建物の壁に書かれている以外には看板らしきものはなく,厚化粧したような街の装いは何一つみられず,しかも車は少なく,閑静なたたずまいを感じた。
 だがしかし,この10年,首都の表情は劇的に変貌している。その引き金は怒濤の勢いで進む消費文明化である。たとえば,首都中心より2キロ半ほど北西の市街地を東西に抜ける「牧民のアヨーシ通り」は最も交通量の多い場所として知られている。大通り沿いに衣食住用品のまざまな店舗のほかに銀行,レストラン,カフェ,24時間営業のコンビニ,アクセサリ専門店などが軒を連ね,それらの鮮やかな色彩の看板が人目を引く,華やいだストリートである。しかも,このストリートは地方からのアクセス道路であり,往来する車の騒音とタクシーの呼び込みの声が払暁の静寂をかき消し,昼間の車と人の雑踏は甚だしい。もちろん,他の大通り沿いにも食品スーパーやレストラン,ファーストフード,さらにはインターネットカフェの看板を見かけ,市内バス停付近などは果物,アイスクーム,ジュース,スナック菓子などのキオスクで賑わっている。
 また,市内数か所に大型の自由市場(ザハ)が開設され,骨董品から衣食住用品,外国製車やその部品まで販売している。さらにまた,社会主義時代からの国立デパートではモンゴル大手の電器店「ノミン」が資本を投資し,1階にスーパーマーケットをつくり,チンギス・ハーンホテルの一部には韓国資本の巨大なショッピングセンターがある(本誌3号掲載)。中国や韓国,ヨーロッパ,オセアニア,そして日本からの食料品や嗜好品等が陳列棚に並び,熱帯魚コーナーまである。

食料品店の菓子パンコーナー

自国産の食パンや色々の菓子パンがビニール袋で包装されている。輸入のビニール袋は食料品の包装に広く用いられている。ビニール袋を始め生活廃棄物は近郊の山中で野外焼却され,その煙は一日中絶えない。

アクセサリー専門店

韓国製のかわいいピアスや髪飾り,ハンカチなどが陳列されている。私は遊牧民の子供に贈るハンカチを1枚200トゥグルク(23円)で買った。

 上述した消費文明の風景は私たちの国では,ずーっと以前から見慣れたものであり,本誌に記述するのは気恥しい思いである。
 ところで,わが国の消費文明の軌跡をたどれば,戦後の飢えの時代を乗り切り,昭和31年に経済白書が「もはや戦後でない」と発表してから,同35年の所得倍増計画と貿易為替自由化計画,同38年のガット11条国へ移行,同39年のOECD加盟とIMF8条国へ移行,同44年の第2次資本自由化,同60年の市場開放アクション・プログラム決定,平成5年のウルグアイ・ラウンド最終合意等々半世紀に及ぶ長い懐妊期間を経て花開いた文明である。そしてその文明は,大量生産・大量消費・大量廃棄という工業化文明の光を放ちつつ,一方で影の部分を生み出し,その公害対策を講じながら今日に至っている。
 社会主義時代,首都住民は消費文明から隔離された環境に置かれていたわけではない。首都住民のかなりの人々は近代的高層アーパートで暮らし,国立デパートの食料品や日用品雑貨売場をのぞくと,ブルガリア産ピクルスの缶詰やソ連製イワシの缶詰が目を引き,輸入の絹糸,香水,高級石鹸,プラスチックのネクレス,そして白黒テレビ等々が整然と置かれ,日本のデパート並みの混み方で客は欲しい品物をさがしていた。品物はそう豊富にあるというわけではないが,生活に最低必要なものは十分に用意されている感じであり,都市住民は禁欲的に消費文明の恩恵に浴していた。
 市場経済移行後,消費文明によって化粧された首都の表情を,10年前に誰が予想し得たであろうか。私は,時折,首都を訪ねる旅人であるゆえに,消費文明化が怒濤の勢いで進んでいることを実感できるのである。それはしかし,わが国の長い時間の流れの中で手立てを講じながらの消費文明化とは大きく違っている。すなわち首都の消費文明化は,無防備でしかも貧しい国民経済力の下での怒濤の勢いであるだけに,急速に顕在化す文明の影の部分に対応しきれないでいる。「民主化・市場経済移行以降,国家財政の赤字は外国からの援助・融資によって埋められ,02年予算の赤字797億トゥグルク(歳入額の22%強)の約93%を外国の支援に依存する」(01年10月付けウドゥリンソニン紙)とうい財政の危機的状況が,政府の消費文明化の負の部分の処理を手間どらせているようだ。

自由市場探訪

 市場経済移行以降後,市内5か所に大型の自由市場(ザハ)が出現し,他に小さなザハや朝市も多い。大型ザハと言ってもコンテナを店舗にしたザハ,体育館のような屋根付きのザハのほかに青空市場もある。
 その1つ「ナラーントール・ザハ」は2年前に,社会主義時代からあった青空市場を閉鎖・移転,新築した屋根付きの国内最大のザハである。日常雑貨から食料品まで何でも揃う。市内のキオスク,地方の商店もここに買いにくる卸市場でもあり,大量消費文明の発信基地である。
 輸入食料品や日用商品の多様さや豊かさには目を見張るものがあり,日曜日は特に大変な人込みで,入口前の広場には車があふれている。このザハでは買物客相手に飲料水や弁当,バナナや茹で卵などを移動販売する子供たち,手押し車を引いて駐車場まで運ぶポーター,片手に電話機を持って歩く移動電話サービスの婦人まで,ザハは売り・買いの人だけでなく,さまざまな人に仕事を与える場所でもある。このザハに限らず,人込みの中で活躍するスリや酔っぱらいには注意しなければならないし,外国人の一人歩きは危険で,現地の人と行くべきである,と言われている。
 01年8月8日,私たちはゴビ山岳部ツェルゲル村遊牧民たちへの土産物を大量に買うため今岡良子助教授の夫君エンフジャルガルの長姉の案内でこのザハに出かけた。購入品は中国産の米,小麦粉,砂糖,ローソク,韓国製石鹸,グルジア産磚茶,国産の食塩,ビスケット,飴,ミネラル水,煙草,酒などである。長姉は同業種のコンテナ店舗の値札を下見して,強引に値引きの交渉をする。厳しい経済事情を抱えながら消費文明に立ち向かうモンゴル女性の心意気を見た思いである。
 私たちは9月上旬の北部セレンゲ流域への旅に備えて防寒用デール(民族服)を購入した。デールの絹地と木綿は中国製である。草原の国では社会主義時代から畜産関係以外の製造業は未発達なのである。
 01年8月9日,私たち乗用のロシア製ジープの部品購入のため,車専門のザハ「ダー・フレー・ザハ」に出かけた。上空を群青に染め抜かれた高台広場にドイツ車,韓国車,日本車が並び,最も多いのはロシア製ジープである。ちなみに三菱ЯVRーXの中古車は5千ドル,ブルーバードは4千ドルである。車はヨーロッパ市場に出かけて,あるいはパキスタン商人らから購入するらしい。市街地を走る車はドイツ,韓国,日本製が多く,その部品はコンテナ店舗で売られている。このザハはモータリゼーションの先導役を果たし,集まる人々の目は輝ききらめいていた。
 モンゴル高原の日差しは強烈で,渇きを癒すためアイスクリームを買った。味覚をとりこにするほどの美味さはシベリア・イルクーツクの産物であった。「アイスクリームよ,お前までも外来か」と言いたくなるほど首都には輸入産品があふれている。自国の生産・製造業を振興し,国民経済力を高めながら,身の丈にあった消費文明を受け入れなければ,その文明はあだ花に終わるのではないか,と危惧を感じたのである。

小麦粉専門のコンテナ店舗

コンテナに25キロ入り小麦粉が積んである。ほとんどが中国産とロシア産で,自国産は目にとまらなかった。路上の男女2人はビニール袋と布袋を売っている。右手のビーチパラソル下の女性はジュースと松の実を商っている。今,市街地では路上で松の実を食べる人々が目立つ。

車部品専門のコンテナ店舗

コンテナに車の各種部品が所狭いばかりに並んでいる。右側のどーんと置かれた新品のエンジンは「新しく,上質の部品を売っている」というディスプレー?,とは同行の今岡良子先生の感想である。首都の自動車は5万台近くで,その60%は自家用車,残りをトラックとバスがほぼ等分している。中古車が多いせいか,運転手はみんな修理のプロである。

若草野一雨ごとの変化かな