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〔シリーズ〕私のモンゴル(7)

−モンゴル高原の遊牧騎馬民族−

三秋 尚

 バイカル湖の南東でロシアとの国境付近から南西方向に走る2千メートル級のヘンティー山系の西麓にトーラ川,東麓にオノン川とヘルレン川が流れる。これら3大河川流域には広大な草原が展開し,そこは13世紀初頭モンゴル帝国建国への第一歩を踏み出したモンゴル民族の故地であり,モンゴル高原の最北部に位置する。
 モンゴル高原の広がりは,北はシベリア・タイガ帯に接し,東は大興安嶺山脈,東南は陰山山脈,西南はアルタイ山脈及び北山山脈に至る広大な高原である。現在,この高原のおおよそ北半分はモンゴル国が,南半分を中国人民共和国内モンゴル(蒙古)自治区が領有し,両者の合計面積は約275万平方キロで,わが国の7倍強である。
 モンゴル高原において,モンゴル民族が登場する以前,遊牧騎馬民族として重要な活動を行ったものを中国の史書に基づいて古い順に挙げると,匈奴,鮮卑,柔然,突厥,ウイグル,契丹である(付表参照)。
 紀元前3世紀,アジア史に最初に登場した匈奴はスキタイ系遊牧騎馬文化の影響を受けた遊牧民族で,強大な遊牧騎馬国家を建国し,モンゴル高原全域の諸部族を支配するとともに,漢族の王朝である秦,前漢,後漢と長期間張り合っていた。中国本土北辺に築かれた「万里の長城」は秦の始皇帝が匈奴の侵入を防ぐため本格的に造ったものである。匈奴とモンゴル人との遺伝関係は明らかでないが,モンゴルの歴史学者の中にはモンゴル系であると主張する者もいる。匈奴の国家形態(軍事行政組織など)は重要な点でその後の遊牧諸民族国家の範となっている。
 紀元2世紀末,匈奴は内紛により衰亡し,大興安嶺山脈東麓で匈奴に隷属していた鮮卑(アルタイ系)がモンゴル高原を支配し,強力な国家体制のもとで漢王朝を苦しめた。鮮卑族が後のチンギス・ハーンに直接つながるかどうかは不明であるが,生活形態は現代のモンゴル牧畜民に近似しているとされている。
 5世紀初頭,鮮卑系の柔然が独立して遊牧国家を建て,匈奴以来の伝統である軍事社会組織を整備し,モンゴル高原から朝鮮までを支配した。柔然はモンゴル系とされているが,鮮卑とともにその君主を「可汗(かがん)」と称し,それは後にモンゴル族のハンやハーンに連なる伝統的称号となった。また,彼らの奉じたシャーマニズムは,後のモンゴルのシャーマニズムとの類似性が高く,文化的にもモンゴルの先祖の一翼を担っている。
 6世紀中頃,アルタイ山麓にあって柔然に服従していた突厥が反旗をひるがえし,突厥国家を建国した。その支配地域はモンゴル高原全域,東西トルキスタン,朝鮮の一部にまで及んだ。中国北朝末期から隋,唐にかけて漢族王朝と張り合い,それらを圧倒した時期もあったが,8世紀半ばにトルコ系ウイグル族と交代した。突厥国家はトルコ民族が最初にたてた遊牧国家であり,北アジアで初めて固有の文字を作成し,いわゆる突厥文字の使用によって,「文明化」への第一歩を踏み出したといえる。突厥もまた,匈奴以来の軍事・行政・社会組織を継承し,強力な草原国家を形成した。
 8世紀中頃,突厥はその配下でモンゴル高原北部にいたウイグル族の集団によって滅ぼされ,ウイグル国家が建設された。この遊牧国家はモンゴル高原全域を約1世紀にわたって支配し,中国から中央アジアに至る遠隔地貿易の道を作った。

写真1 突厥時代(6〜7世紀)の石人
石人は突厥の英雄を現しているという説と突厥が戦って殺した敵兵を示しているという説がある。1998年夏、ゴビ山岳部にて。


 10世紀に入ると,大興安嶺山脈南部にいた契丹族(モンゴル系)が興起し,中国風の遼王朝を建て,モンゴル高原を広く支配するとともに,中国東北と華北の一部を支配し,漢王朝である宋に対し優位に立つ時期もあった。遼朝の社会は華北の農耕社会も取り込んだため,牧畜社会との二重構造をもち,農牧複合国家であった。遼朝は大規模な文化事業を推進し,その仏教文化遺産としての「白塔」と称する巨大な華厳経塔は有名である。
 12世紀初頭,中国東北部(旧満洲)において勢力を伸ばした女真族(ツングース系)は遼朝と宋の確執の間をすりぬけ,金帝国を建設した。しかし,13世紀前期にモンゴルと宋の連合軍の攻撃を受けて衰退した。女真族は非遊牧騎馬民族で,モンゴル高原の遊牧民に対して概して消極的な姿勢で対処し,モンゴル高原の遊牧民が積極的に活動する余地を与えた。このような歴史的背景の下で,12世紀中頃,モンゴル系諸部族はその統合を成し遂げたのである。金帝国が最大勢力を有していた12世紀前半は,まさにモンゴル出現の環境準備期間であった。しかし,400年後にモンゴルは女真族が再び興した清朝の支配下に入る運命を背負っていた。
 12世紀中頃,モンゴル高原にはモンゴル,ケレイド,タタル,メルキド,ケレイド,ナイマン,オイラド,オングドのモンゴル系大部族が地域的に独立し,遊牧していた。1155年(一説に1162年),モンゴル高原北東部で誕生したテムジンは,高原に割拠する諸部族を統合し,13世紀初頭王位につきチンギス・ハーンと称し,モンゴル帝国の建設に踏み出し,それ以降現在に至るまで,モンゴル高原の主人公は一貫してモンゴル民族である。

写真2 チンギス・ハーンの肖像を用いた切手
歴史的超大国創始者チンギス・ハーンの肖像を用いた切手は多数ある。なお、歴史、自然、生活、文化、芸術などに関する切手は非常に多い。

 モンゴル帝国は,周知のように,チンギス・ハーンと彼の子孫の指揮のもと,アジアとヨーロッパにまたがる大帝国に発展した。第2代のオゴディ・ハーン(1229〜1241)は,1235年に首都を初めてモンゴル高原北部のオルホン河畔カラコルムに建設し,また,第5代フビライ・ハーン(1260〜1259 )は,現在の中国の領土のほとんどを手中に収め,1271年首都をカラコルムから大都(北京)に遷し,元朝を樹立した。しかし13世紀後半,繁栄をきわめたモンゴル大帝国も内紛により分裂が進み,明朝の興隆によって,元朝は14世紀半ばにモンゴル高原に撤退した。
 17世紀前期,後金国を建国した女真族は明朝を倒し,首都を中国東北部の瀋陽から北京に遷し,国号を清と改めて中国の支配者となり,モンゴル高原は清朝の領土となった。
 戦時世代の日本人になじみが深い「蒙古」という言葉は「モンゴル」という言葉の漢字音写である。現在,私たちが耳にする内蒙古と外蒙古の区別は清朝が用いた地域名で,清代の資料によれば,ゴビの北側を外蒙古,南側を内蒙古と呼んでいる。
 20世紀初期,辛亥革命(1911)により清朝が滅亡すると,外蒙古はソ連と組んで独立を達成し,モンゴル人民共和国を建国した。一方,内蒙古では,独立運動の推進者・徳王が南京の中華民国政府に対し,内蒙古の高度自治を求めたが退けられた。その後日本軍の支援のもと1937年に蒙古連盟自治政府を樹立したものの日本の敗戦により挫折し,1947年新生中国人民共和国の自治区(内蒙古自治区)に組み込まれた。
 モンゴル高原において匈奴の時代から2千年,遊牧騎馬民族によって建設された草原帝国は国名や君主の家系を変えながらも,この高原における社会,政治,経済,文化的発展に大きく貢献してきた。そして定住文明の中国と肩をならべ,農耕文化と対峙しながら遊牧文化は堅持され,現代へと継承されている。

  夕虹をくぐりて来たる騎馬の人