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〔シリーズ〕私のモンゴル(9)

−2002年夏・再訪(2)−

三秋  尚 

情報は駆け巡る

 ツェルゲル村が所属するボグド郡の中心地で,夏休みのため空いている学校教職員宿舎に一泊した8月15日の夕方,宿舎の隣のゲルに住むバートル氏(62才,元教師)が突然やってきた。彼は娘が日本語を学習し,そして今岡良子助教授が10年前からツェルゲル村でフィールドワークを続け,小生が四季折々に五畜(ラクダ,馬,牛,羊,山羊)の放牧に付き添っていたことを知っている,と初対面の挨拶代わりに話し,親しみの表情を顔一杯に浮かべていた。
 彼は今岡・エンフジャルガル夫妻の質問に答え,今年(2002)春の大雪による家畜の被害状況をあらまし次のように話してくれた。ボグド郡の中心地(標高1300メートルで,ツェルゲル村中心地から北へ70キロ)では,昨年12月から3月までに5センチほどの降雪があり,その後4月10日に20〜30センチの大雪に見舞われ,5月に入っての雪と雨で牧草を覆っていた雪が凍結した。それ以降は雨が一滴も降らず,この夏は干ばつである。
 彼の話は続く。郡内の五畜の総頭数は2001年12月末に9万頭を数えたが,今年6月末には5万頭以下に減少し,特に馬の被害は著しく6000頭から1500頭に激減したが,ツェルゲル村の被害は郡内で最も軽いと,翌日の昼前に会った郡長顔負けの説明である。しかも彼の説明の圧巻は,被害状況を牧家ごとに把握している点であった。たとえば,ニャンボー家は家畜の損失を最少限度に押さえた郡内3戸の優秀牧家の一つであり,ダンバ家の被害は軽少ですみ,ドンドブ家は並みの被害であり,ドー・ジャルガル家やトムルバット家の被害は大きい,といった具合である。これらの牧家は私たちがこれまでホームステイした牧家の一部である。
 ボグド郡の面積は3980平方キロ(鳥取県3507平方キロ),総人口3254人,総戸数781戸(うち牧家数692戸)で,郡の人口密度は0.79人/hである(2001年末)。ちなみに岡山県の人口密度は市部647人,郡部104人(2000年国勢調査)であるから,ボグド郡の超過疎ぶりを想像できよう。この郡の中心地に定住するバートル氏が,牧畜被害状況を広大な郡に点在する牧家のレベルで知っている事は驚きであった。もっとも,彼は最近まで郡中心地にある8年制学校で国語(モンゴル語)の教師を勤め,牧民の子供たちと常に接触していたから,牧家の家庭事情への関心が高く,詳しく知っているのは当然だと言えるかもしれない。
 首都から遠く離れ,大草原によって密封されたような形の遊牧社会では,郡中心地の定住民,遊牧民をとわず人々の間では時代を創る政治,経済,社会問題などへの関心以上に自然および家畜を巡るお互いの係わりや暮らし向きの日常に,また外部者の行動など非日常に話題性が高いようである。そしてそこから発信される情報は「口コミ」によって素早く広がり,草原に点在する牧家の間で共有される。この情報の共有化こそ遊牧社会を支える連帯の紐を強く結びつける役割を果たしているのではなかろうか。同時にまた,駆け巡る情報により,わが国のテレビ局が放映している「ワイドショウー」番組さながらに,人々はその主役となり,視聴者となって,単調な日々の暮らしにめりはりをつけているようにも思える。ともあれ遊牧社会は現代の科学技術文明が生み出した情報伝達手段をもたない情報化社会で,すべての情報が駆け巡り,公開されている。前述のバートル氏の情報通もこうした文脈でとらえることができよう。


写真1 野営地付近の風景
ハンガイ山脈を源流とするオルホン川流域には豊饒な森林性草原が広がり,ヤク飼養牧家のゲルが点在する。標高1800メートル。


写真2 標高2300メートルの峠に立つ古木
針葉樹地を抜ける轍道で風雪に耐える古木に出会った。私はこの古木の生命力に感動し,その記念に一葉の写真を残すことにした。


写真3 砂金採掘現場に出現した約150棟のゲル集団の一部
標高2300メートルの峠を越えるとターツ川を挟む草原が広がり,そこに砂金採掘に係わる人々の宿場が現れた。

遊牧家族の出稼ぎ

 バートル氏の話はさらに続き,1999年以来の気象災害などの理由で県都や首都への移住者が増え,郡長の移住許可を得た家族は今年7月現在46戸(郡内全戸数の5.9%)を数え,無許可で郡外へ出た家族もかなりいるらしい。ちなみに前日(8月14日)の県知事の話では県都の人口はこの1年間に2万人から3万人に急増している。
 彼が最後に話題にしたのは牧民家族の砂金採掘現場への出稼ぎである。この情報は2日前,県都に住むツェルゲル村元住民バットツェンゲルから聞いていたので,その時ほどの驚きはなかった。しかしバートル氏が語る,気象災害などで家畜を多く失った牧民たちが家族ぐるみで砂金採掘現場へ移住し,不慣れな仕事に精出し,心身ともに疲れ,その割には報われない話を聞いたとき,その現場で働く2家族の昨年夏の明るい顔が脳裏に浮かび,そして前々日(8月13日)県都へ行く途中で目撃した砂金採掘現場の生々しい光景を思い出し,悲しく,やるせない感情がふつふつとこみ上げてきたのである。
 8月12日,私たちは県都に向かう途中で,大モンゴル帝国第2代オゴタイ・ハーンが1235年に建設した首都カラコルムの跡地に今も残るエルデニ・ゾー寺院(1586年建立)に立ち寄り,そこから120キロ西方にある名勝地「オルホンの赤い滝」で野営し,その翌日キャンプサイトを出発し南下すること3時間半,60キロの走行地点で砂金採掘現場を目撃したのである。
 標高2000メートル前後の緩やかな起伏の丘陵草原を走っていた車が,山岳樹林帯に入り,左から林木が迫り,右手は断崖となっている樹林地の悪路を標高2300メートルまで登りきると,前方にターツ川(本誌前号の地図参照)の細い水流を挟む山合の平原が伸びやかに広がっていた。車が標高差200メートルをいっき下降すると,道路右手の水流沿い低地におよそ150棟のゲルが散在する異様な光景に出会った。時刻は午後1時すぎ,人々の動きは活発で,大きい池のような水溜場では大勢の老人,女,子供たちが腰をかがめ,ザルのような道具を動かしていた。車のハンドルを握るエンフジャルガルは即座に砂金採掘現場だと教えてくれた。この現場を10分間ほど走ると金鉱採掘場の大きな建物,施設が目に入り,その先には普段のヤクや羊・山羊群の放牧風景が戻っていた。
 ハンガイ山脈を源流とし,ウブルハンガイ県の西部,バヤンホンゴル県東部の県境沿いを南下するターツ川流域の各所に金鉱脈があることは,これまで公表されていなかった。金鉱採掘は一般に12メートルほどの深さであるが,スコップの深さで砂金を採取できる場所を一般人が発見し,今年(2002)から砂金ブームが起こったのである。採掘は厳寒を除く春から秋までの期間で,誰でも自由に採掘できる。私たちが目撃したのはターツ川上流域の砂金採掘現場であった。この宿場には採掘者やその家族,砂金の鑑定人やバイヤー,一般商人など中国人らを含む7000人が出入りしている。
 牧民たちは自家の家畜を親戚,知人に預託し,採掘現場へ出稼ぎ移住する。1人1日の砂金収入は4000〜5000トゥグルク(約4〜5ドル)である。この金額は1家族1日の食事代に消えてしまう。そこで彼らは家族ぐるみ身を粉にして働き,その肉体的,精神的負担は並大抵ではない。しかも砂金採掘をめぐるトラブルが頻発し,喧嘩,窃盗などを含む社会犯罪が増えている。砂金採掘現場での暮らしは,自然に生かされて家畜とともに明るく暮らす牧民たちにとって,必要悪とも言うべき難行・苦行の日々であろう。
 8月21日,私たちは昨日砂金採掘現場からツェルゲル村の夏営地に帰ってきたトーフグイ家の主人と三男に会った。同家は隣の郡に住む娘婿一家に家畜を預け,6月20日から8月19日まで採金現場に移住していた。トーフグイに採金の成果を尋ねると「まあまあ悪くない」の返事が反ってきた。来年も出かけるかの質問には「分からない」と答え,彼の表情にいつもの明るさは見られなかった。何か心配事を抱え複雑な心境なのであろう。
 私は拙著『モンゴル 遊牧の四季』(鉱脈社,1995年)の中で牧民の出稼ぎについて記述したことがある。その出稼ぎとは,通常の放牧域外で良質の牧草と水源を求め,頻繁に移動を繰り返して家畜を肥やし,あるいは越冬のため体力をつける「オトル」と呼ばれる放牧にテントと食料品を携えて出かける男たちの行為を,わが国の高度経済成長期における農村からの出稼ぎと対比するために用いた表現であった。同書に記述した「オトル」放牧のための牧民の出稼ぎは,牧畜の生産性を高めるためであって,わが国における農政の貧困などに起因する家計費の不足分を農外収入で補充するための農民の出稼ぎとは本質的に異なっている。
 しかしながら,今回のツェルゲル村牧民の砂金採掘現場への出稼ぎは,牧畜収入で充足できない家計費を牧畜以外の砂金収入でまかなうもので,わが国の農民の出稼ぎと全く同質といえる。しかも,牧民の出稼ぎが限定期間とはいえ牧畜と引き離された家族総出であるだけに,彼らのせっぱ詰まった悲痛な叫び声が私の心の襞に深く染み込んだのである。


写真4 砂金を選別する人々
水溜場に集まる牧民家族の老若男女は採掘土砂から金の選別に全神経を集中する。望遠レンズで撮影。


写真5 ヤクの放牧風景
砂金採掘現場を過ぎると川沿いに広がる標高1980メートルの低地草原に約500頭のヤクが放牧されていた。

吹雪く日や山羊追う人の声高し