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〔シリーズ〕私のモンゴル(10)

−2002年夏・再訪(3)−

三秋  尚

ミャグマルスレン家にて

 昨年に比べて少しばかり草立ちの良いゴビ砂漠性草原を走るワゴン車のバックミラーから薄茶色に染まった起伏の大地が次々に遠のいていく。サーモンピンク,小麦色,スカイグレイなどに彩りを変える轍道を進む車は,郡都からツェルゲル村東端のダイルガ渓谷口まで95キロを時速20キロ前後で走り抜けた。目指すツェルゲル村はゴビ・アルタイ山脈東端の一角にそびえる高峰テルグーン(3,590m)を頂点とする東ボグド山系の山懐にある。その広がりは東西約42キロ,南北約12キロ,総面積は504平方キロ(岡山市の面積は513平方キロ)である。村の東部は東ボグド山系の高山部に当たり,標高はおよそ2,500メートル以上,その山塊の稜線を縫って5大渓谷が発達し,その一つがダイルガ渓谷である。

写真1 東ボグド山系を望む
手前の平原は標高1,300メートルのゴビ砂漠性草原とラクダ群約200頭の一部。後方は東ボグド山系で中央部突出の山頂はテルグーン山(3,590m)。

写真2 小さな砂丘
ゴビ砂漠性草原の砂丘。昨年(01年)夏,この場所では見られなかった。砂漠化はじわじわと進行している。

 02年8月17日の昼下がり,ダイルガ渓谷を抱きかかえる山塊は群青の空で覆われ,浮雲が晩夏の風に漂っていた。標高2,450メートル,大小の岩石を敷き詰めた渓谷口には小川を挟んで10棟のゲルが600メートルほどの間に点在し,7家族が宿営している。私たちの車は激しく吠え立て,突進してくるモンゴル犬を警戒しながらミャグマスレン家のゲルの傍らに止まった。
 8月14日に県都近郊の自由市場で偶然に出会ったミャグマルスレンと3日後に郡都で再会し,彼ら夫妻はロシア製ジープで私たちと同行した。車のエンジンが止まらぬうちに,子供たちがゲルから飛び出してきた。同家はミャグマルスレン(38才)と妻ナンジットポンサン(34才),そして子供たち長女(13才),次女(11才),長男(7才)の5人家族である。
 長女と次女が2頭の犬を捕まえ,その間に私たちはゲルに案内され,客人の席に着いた。約23平方メートルの円形ゲルの奥正面には仏壇が置かれ,左右の側壁沿いにスチール製ベッドがあり,中央部に鉄板製カマドがおさまり,左側の空間が客人の席である。
 ミャグマルスレンは,長男の進学準備などの用事で子供たちを残して県都まで片道約230キロの旅を無事に終えた満足感に私たち5名のホームステイが重なってか,陽気に振る舞い,なかなかのお茶目で皆を笑わせる。彼の妻は帰宅後すぐに大鍋で乳茶を作り,客人を迎える日常的作法にしたがって,乳茶を茶碗に注ぎ,アーロール(硬質チーズ)を盆に盛って差し出した。私たちはアーロールの小片をかじり乳茶を飲む。馬乳酒が豊富な時には丼で振る舞われるのである。
 やがてミャグマルスレンは主人の席(正面奥仏壇の右側)で右膝を立てて座り,右手に持ったホーログ(嗅ぎタバコ入れ)を私たち一人ひとりに順番に差し出した。モンゴル人どうしの間ではホーログを互いに交換し,そのタバコの匂いを嗅ぐのである。伝統的にモンゴルの男たちはホーログを大事な小道具として肌身離さず持っており,上記の行為は彼らの敬意の表現である。

写真3 精悍な面構えのミャグマルスレン
彼は民族独自の盛装で,自宅前に現れた。なお,ゴビ地方では一昨年のカシミヤ景気で,ソーラーパネルとパラボラアンテナを備えた牧家が多い。

 16時40分,北西からの風が少々強くなった。接客の儀礼が終わり,私たちは持参のテントを張ることにした。5名がゲルに泊まるには人数が多すぎるからである。テントの位置はゲルから30メートルほど離れた場所である。この頃,近所の牧民や子供たちが5〜6人集まり,テント張りを見物かたがた手伝ってくれた。平坦地を選び,礫を取り除くと,テントの組み立て作業は簡単で,持参の荷物搬入まで約30分間の作業である。私のテントの広さは180×210センチ,宅急便のダンボール箱2個分と大きめの布製バッグ1個分の荷物のほかに寝袋とフェルト製敷布団を運び入れるとほぼ一杯である。
 17時30分頃,次女のジャルガルハンドがモンゴル犬と一緒に食事を告げに来た。その小柄な犬の名前を尋ねると,バンバローシ(子熊)だと言う。10年前,この村で1年間を共に過ごした愛犬の名前と同じであった。私はその名前を聞いて,反射的に携行のアーロールを与えた。10年前,愛犬にアーロールを与えていたので,私はパブロフの犬のように反応してしまった。

写真4 もう1頭の“バンバローシ”
10年前,一緒に過ごしたモンゴル犬“バンバローシ”と同名の犬が私のテントにしばしば現れた。

 食事はゴリルタイホール(肉入りうどん)であった。この料理は日常の食べ物である。うどんはわが国の手作りうどんと同じ作り方である。大鍋で細切れの羊肉を炒め,煮立て,うどんを入れ,岩塩で薄く味付けしただけの簡素なものである。飽食の時代,私たちの味覚はおそらくこの料理を受入れないだろう。しかし,その味はまさに風土の味であり,草原に暮らす私の味覚を満足させてくれる。ゴリルは小麦粉,ホールは食事のことである。わが国ではうどんの具を強調するが,この料理に「肉入り」の冠はついていない。モンゴルでは料理に肉を使うのは当たり前のことであり,肉食文化と穀食文化の違いはうどん料理のネーミングにも表れている。
 私たちの食事中も冗談を飛ばすミャグマルスレンに末っ子の長男と次女がまつわり付き,彼は次女の乱れ髪を整える。長女は乳茶を作る母親のために燃料の家畜糞を運ぶ。両親が県都へ出かけた留守の間に子供たちの寂しさはつのり,それはしかし,家族の団らんの中でいっきに消えていく。アジアの深奥部,ゴビ山岳地での小さな1室空間のゲルの中には,物の豊かさに反比例して心の豊かさや家族の温もりが詰まっている。
 20時20分,標高3,000メートル近い山岳牧地から母山羊群が帰り,21時ごろから90頭の搾乳が始まった。搾乳は女たちの仕事である。隣家の娘たちが応援し,40分ほどで終わった。朝夕2回の搾乳でその量は約30リットル,搾った乳はすぐに処理され,モンゴル伝統の乳加工技術でウルム(乳脂肪の塊),シミンアルヒ(乳酒),アーロールなどが作られる。

写真5 山羊群の搾乳風景
ミャグマルスレン家では90頭の山羊の搾乳を朝夕行っている。近所の娘たちが手助い,相互扶助の精神は古くから脈々と受け継がれいる。写真は母山羊群の一部,朝8時写す。

 ミャグマルスレン家では02年春の大雪害で,馬30頭,ラクダ4頭を失うも,山羊・羊の被害は非常に少なく350頭ほどを飼養している。多くの牧家では,雪害により母山羊を失い,また,この後ホームステイした別の優秀牧家でも越冬のため山羊の交配を中止し,そのため基礎食料として備蓄するアーロールの生産が少なく,しかも毎日欠かせない乳茶も存分には飲めないほどの事態が起こっている。ミャグマルスレン夫妻は獣医師であるが,その本領を発揮して母山羊90頭の搾乳が出来たのであろうか。その理由を聞く私たちのために,彼ら夫妻は翌日冬営地で山岳牧地の地形や植生について説明し,さらに翌々日には3,200メートルの夏営地へも案内してくれたのである。
 21時30分,私たちは乳茶を飲み,彼ら夫妻が県都で購入した食パンに自家製のウルムを乗せて,夜食を頂戴した。やがて薄い夕闇が渓谷に漂い,ゲルをぼんやりと隠すころ,蝋燭に火が点された。その小さな炎は人の動きにも敏感に反応して揺れる。22時10分,弓張り月が眼前の見上げる山の稜線から現れ,私たちは野営のテントに引き上げることにした。モンゴル犬バンバローシは尻尾を振り,もう1頭も私たちの存在を認めてくれたらしい。ゲルの傍らでそしらぬ顔をしている。 テントに帰ると,ミャグマルスレンから同行のエンフジャルガルに託したメッセージが届いた。それは,今晩,ブヘルマハ(骨付き肉)やゲデスホール(内臓料理)で歓待できなくて申しわけない,という内容であった。今日の午後,彼ら夫妻は県都から帰宅したばかりで,羊を屠殺し,その料理を準備をする時間はないはずである。でも,ミャグマルスレンとしては礼を失したと考えたのであろう。 遊牧とは移動を軸にして展開する牧畜である。その移動距離は,ツェルゲル村のある牧家では四季を通じて100キロ,村外のある牧家では冬営地から夏営地まで150キロのコースを移動している。また,本誌前号で触れた「オトル」は頻繁な移動によって成果をあげる放牧方式である。それゆえ,モンゴル遊牧民にとって移動は旅であり,彼らは旅人であるとも言いうる。そして移動を続ける牧民にとって旅は仕事そのものである。だからこそ,モンゴル遊牧民は旅人に敬意をはらい,羊料理で温かく迎える伝統的な風習を今日に伝えているのであろう。
 私はこの10年余り,機会があれば牧家に泊まることにしている。1970年代後半から始めたモンゴルへの旅の目的は当初は牧地調査であった。しかし,1992年のゴビ遊牧地域研究調査プロジェクトによる1年間のフィールドワークにより,牧地を年中利用する家畜の放牧生態と飼養管理,そして牧地と家畜の相互関係に依拠する牧民の生活の視点から牧地を観察する必要性を強く感じたのである。このため牧家に宿泊し,少なくとも1日は家畜の放牧行動,他の1日は家族の生活行動の調査にあて,その合間に家畜飼養技術を学ぶことに努めている。こうして少年の頃に夢見たモンゴル草原での羊飼いと遊牧世界に浸る心地好さに満足しているのである。

手作りの乳酒の香り初日の出