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〔シリーズ〕私のモンゴル(11)

−2002年夏・再訪(4)−

三秋 尚

ノローの山頂に立つ

 8月18日午後3時,私たちはノローの山頂に立った。高峰テルグーン(3,590m)を頂点とする東ボグド山系の南麓側にノローの山塊はある。天空の彼方から幾重にも連なる山々の峰の中に,薄日で暗紫色に染まるテルグーンの峻嶺がくっきりとそびえ立ち,その峰の谷間を白雪が埋めていた。騎馬で急峻な山岳登頂を無事に果たした13名の大歓声が吹き抜ける涼風に乗って遠ざかり,やがて山風の音色だけが残った。
 1本の樹木さえも拒むノローの山頂は,足速い初秋の訪れで黄や薄茶に変色したハーブやスゲなどで密に覆われ,各所に散在する牛馬の糞が遊牧域であることを物語っている。標高3,250mの山頂は幅約200m,長さ800mほどの狭い平坦地にすぎないが,しかし,まぎれもなく遊牧3000年の歴史を紡ぐ地球の極小地点である。
 地球儀に目を移すと,ヒマラヤ山脈の北方にはチベット高原を挟んでクンルン(崑崙)山脈が東西に走り,その北にタムリ盆地(タクラマカン砂漠),さらにその北側にはジュンガル盆地が横たわり,その盆地の北東部にアルタイ山脈が発達している。このアルタイ山脈はモンゴル国の西北部から中国国境沿いを南東方向へ「モンゴル・アルタイ」そして「ゴビ・アルタイ」と名前を変えながらおよそ1,800qを走り,ゴビ砂漠に没している。ノロー山塊はゴビ・アルタイ山脈の東端にあり,ヒマラヤ山脈最高峰エレベスト山から北東へ約2,300q,シベリアの真珠と呼ばれるバイカル湖の西岸都市イルクーツクから南に約800q,そして東京からは西方約3,400qの地点にあり,まさにアジアの深奥部に位置する。
 本誌前号(2003年1月)で記述したミャグマルスレンは私たちの接待に随分と腐心したらしく,その一つが今回のノロー登山であった。この山塊一帯はダイルガ渓谷に宿営する7戸の夏営牧地であり,その山岳牧地への登山は私にとって願ってもない事であった。というのも,私はこの10年来,ツェルゲル村の冬営地と夏営地で,牧地植生を標高との関連で調査し,これまでに標高1,300mから2,880mまでを一応すませ,標高3,000m以上の牧地は未踏査で,まさに好機到来であった。
 ミャグマルスレンは私の専攻が牧地学であること,そして同行の今岡良子助教授(遊牧地域論)が牧地立地に強い関心を寄せていることを先刻ご承知で,今回の登山をおもんばかってくれたのである。今回の登山はしかし,近隣3戸の家族も参加することになり,彼らの多忙な夏の日の疲れを癒し,一層の懇親を結ぶ計らいでもあったようである。
 登山前日の夕食時,ミャグマルスレンは長男バンディ(8歳)に明日の登山には,バンディの持ち馬“バンディシャルガモリ”に私を同乗させて行くように言いつけた。つまり私をモンゴル固有の鞍(木製の座席部〈鞍橋〉の前端と後端が20pほど立ち上がり,座席部の前後端間の長さは約40p)に乗せ,その後部に乗ったバンディが手綱をとる騎乗図式である。バンディはいとも簡単に承諾し,大いに面目を施した表情で私をちらっと見た。童子の目は“安心して任せてろ”といわんばかりに優しく輝いていた。

写真1 童子バンディの騎馬に同乗
バンディと同乗しノロー登山に臨む。背後から抱え込まれた姿勢は窮屈であった。

 私のモンゴル騎馬体験は,1993年夏にウグルート渓谷(ダイルガ渓谷西方約8q)で礫や岩石の多い渓流沿いの緩い勾配を5qほど騎乗しただけであった。急峻山岳地での騎馬体験が豊富な同行の今岡良子助教授から,登り・降りの際の騎乗者の姿勢について細かな注意を頂戴し,私は安心感を覚えたものの,私の背後からの童子バンディの手綱さばきにいささかの不安感は残っていた。
 登山当日8時45分(1時間プラスの夏時間),山稜からの陽光がテントを照らし始めた。ミャグマルスレン家のゲルの煙突から白煙が勢いよく立ちのぼっている。9時15分,同家の次女ジャルガルハンド(11歳)が朝食を知らせに来た。外気温18度,ゲルに入るとボダータイシュル(肉粥)を煮立てるカマドの余熱で暖かさを強く感じる。私は登山を控えた老体を気づかい乳茶にウルム(クリーム)をたっぷり混ぜて頂戴し,羊肉入の粥で満腹した。朝飯を終えたミャグマルスレンはゲルの近くの馬繋ぎ場に7頭の馬を集め,今岡良子助教授と同夫君エンフジャルガルの乗馬を選び,その2頭の馬の鬣(たてがみ)切りに余念がない。バンディは晴れ着姿で愛馬に鞍を装着し,いざ出陣の気構えである。
 12時25分,4家族10名と私たち3名は標高2,450mのミャグマルスレン家を出発した。両側から迫る山岳の間を縫うように続く渓流沿いには大小の角石と礫が突出し,起伏も激しい。私たちの馬は食いしん坊なのか,しばしば牧草を食いちぎろうとする。その度にバンディは「チョウ」「チョウ」とかけ声を発して馬を進める。私の背後でデール(民俗衣装)を敷いた馬の背にまたがる童子は,私の両脇から短い手を前に差し出し,やりにくそうに手綱をさばいている。しかし彼は老人を運ぶ使命感に燃えていたのか,得意気であり,元気であった。15分後,標高2,600m付近の渓流沿いで,今朝方ゲル付近を出発した25頭のヤクに出会った。
 12時50分,標高2,750mの渓流沿い広場で30頭ほどの馬群に出会い,この先は30度前後の山岳斜面へと引き継がれる。これまでの一列縦隊は解かれ,騎乗者は思い思いのコースを選んで進むことになった。一般には等高線沿いに進むのであろうが,それは原則にすぎない。地表を覆う植生はかなり破壊されており,大小の岩石が各所に突出し,表土は崩れ易く,安全な足場の確保が何よりも重要であり,騎馬術の本領が発揮される。
 14時,標高3,050mの山塊の鞍部に到着した。ここを出発し,再び地形の複雑な急斜面を登ることなり,間もなくバンディが泣き出した。童子の視線は私の体に邪魔されて,前方の足場は見えにくく,しかも手綱操作が的確に馬に伝わらず,困り果てての涙となったのである。私たちを終始見守っていた彼の母親が心配顔で近寄り,3本の手綱のうち1本の引き綱を取り,誘導することとなった。15分後にもう一つの山塊の稜線に出た。標高3,100m,峰々を渡る冷ややかな風に吹かれながら6名の牧人が休息していた。
 この場所を後にすると,ノローの山頂に向かって35度くらいの急勾配が広がった。母親に引かれた私たちの馬は頻繁に方向を変え,その都度,鞍の短い前端部を両手で強く握りしめるが,背後から私の体につかまるバンディとのバランスが崩れ,安定を失い易く,いつ落馬しても不思議でない状態が続いた。
 15時,ついにノローの山頂に到着した。出発してから途中の休憩時間30分ほどを含めて2時間35分の所要時間であり,標高差は800mである。騎乗者は鞍を下ろし,馬を点検し,付近に放した。13名の登山者は山頂の一角に立つやや大きめの2つの岩石塊の狭間に円陣を組み,宴会を開くことになった。

写真2 ノロー山頂での歓迎・懇親の宴
ミャグマルスレンは近隣3家族とともに私たちの歓迎の宴を標高3,250mの山頂でで開いてくれた。彼らの間でもいっそうの懇親が結ばれた。写真中央は2人の「嗅ぎ煙草」の交換。

 4家族の牧民たちはそれぞれアーロール,ビャスラグ(軟質チーズ),ウルム,タラグ(ヨーグルト),馬乳酒,シミンアルヒ(乳酒),ボーブ(ビスケット),ツァガーンアルヒ(麦焼酎),飴などを持ち寄る。時刻は15時30分,薄日が射し,気温は20度,心地よい山上での懇親の宴は1時間半ほど続き,各自の持ち歌が披露され,そしてその合唱が朗々と天空に響き渡った。宴の最後は写真撮影である。モンゴル人は写真大好きで,撮影者は私たちである。
 18時10分,気温14度,寒気が下山時刻を告げた。往路と同様にバンディと同乗したが,彼は思うように馬の誘導ができず私を鞍に残し,父親の馬に移った。そこで童子の母親が引き綱をとることになったが,標高3,000mくらいの地点から彼女は引き綱を離し,私はこの瞬間を喜んで迎え入れた。急斜面の下降はスリル満点であった。馬に進路を的確に示すのは不慣れであったが,山岳地の行動に慣れた馬の協力もあり,多少余裕をもって下山したのである。

写真3 ノロー山頂で女性たちと
女性たちに誘われるままに,彼女たちとの記念写真を残すことにした。

 20時45分,暮れ泥む渓谷口のゲルに到着した。日没は20分後である。ゲルの内部はほの暗いが,その中でミャグマルスレンの妻はすぐに夕食の準備にとりかかった。細切れの羊肉にフムール(ネギ属)の薬味と自然塩を加え,それを練り小麦粉で包んだ蒸物のボーズは1時間少々で出来上がった。それを半分ほど口に入れて噛むと,羊肉の熱い汁が口内に広がり「旨い」としか言いようがない。以前,大阪外国語大学で非常勤講師を勤めていた時,学生が作ったボーズを食べる機会があった。その味はしかし,モンゴル草原で食べるボーズの味と大きく違っていた。
 23時30分,おぼろ月夜に浮かぶテントに帰り寝袋に入った。ノローの山頂で植生調査を済ませ,ボーズが醸す風土の味を堪能し,童子バンディの奮闘を思い浮かべ,私の高揚した気分は夢路へなかなか誘ってくれなかった。

陰暦の正月今もゴビの里