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〔シリーズ〕モンゴル・つれづれの記(7)

─遊牧民の住まい(その1)─

三秋 尚

ステップ回廊の住まい

 ユーラシア大陸の中央部,カスピ海東岸から南ロシアに沿って東へ,モンゴル高原から大シンアンリン(興安嶺)山脈西麓まで1本の帯のように果てしなく草原が続く。この草原は‘水の欠乏’という状況が招いたステップであり,「ステップ回廊」と呼ばれ,古くから遊牧民の故地である。このステップ回廊では,東方にトルコ語を話す遊牧民,西方にはモンゴル語を話す遊牧民が暮らし,彼らの住まいである天幕(テント)文化が色濃く染み渡っている。
 遊牧民の‘天幕の住まい’は,定住文化圏の人々の住意識からすれば,「動く建築」であり,固定した住まいの「動かない建築」とは際立って対照的な存在である。ステップにおける人々の暮らしは,季節的な移動の繰り返しのもとで安定し,持続される宿命を背負いこんでいる。したがって移動の生活は,当然ながら建てるのに手間がかからず,持ち運びができ,組立て解体のできる「動く建築」を要求する。この建築条件を満たしたものが,気の遠くなるような長い歳月をかけて進化し完成された現代のドーム型移動式天幕である。狩猟時代の半地下式竪穴住居から抜け出た古代人は円錐形住居へ移り,そして遊牧の発生とともに移動式天幕を住処としたのである。それには羊毛フェルトが大きく貢献し,その発明は紀元前にさかのぼる。
 ステップ遊牧圏における‘動く住まい’の天幕は,本誌次号で記述するように円錐形屋根に円筒形の壁を組立たせた木製骨組をフェルトで覆ったドーム型構造である。その天幕住居は可搬性,軽量性,柔軟性に加えて,冬期の烈風に対する耐倒伏性,厳しい寒気に対する保温性,夏の高温に対する耐暑性,さらに通気性などを備えている。この天幕はモンゴル語でゲル,トルコ語ではユルタと呼ばれる。我々がよく耳にする中国語のパオ(包)は満洲語のボー(家)に由来し,伝統的な漢語では穹廬(きゅうろ)と表記する。
 地球上における天幕住居の分布域は上記した中央アジア以外に,@北アフリカの大西洋沿岸から地中海沿岸,中東を経てチベットの東端に達する地域,Aシベリアのツンドラ・タイガ地帯,Bスカンジナビア半島のラップランド地方,C北アメリカ・大平原のアメリカ・インディアンの住地,D北アメリカ・亜北極圏タイガ地帯,E北極圏のエスキモー住地などである(トーボー・フェーガー『天幕−遊牧民と狩猟民のすまい』磯野義人訳)。
 これらの分布域における天幕の形態は様々であるが,ステップ回廊のドーム型フェルト天幕とは大きく相違し,それは天幕の形と天幕地の種類に見られる。特に前述の@の地域の天幕の形はベドウィンやチベット族の黒天幕に代表されるように,天幕地を縫い合わせた屋根幕をほぼ水平,あるいは緩やかな山状に張ったものであり,他の天幕の形は大半が円錐形である。天幕地は各分布域とも家畜や狩猟動物の皮であり,樹皮であるが,現在は防水の綿布なども使われている。
 遊牧は有史以前から乾燥草原における生業形態であった。しかし20世紀中期以降,遊牧民を抱えた多くの新興社会主義諸国は,急速に台頭したヨーロッパ近代化思想を受入れ,その近代化路線に沿って遊牧民の定住化政策を強力に推進し,その結果遊牧に依拠した生活は失われ,天幕の暮らしの風景は消滅しつつある。一方,モンゴル国においては1921年から70年間にわたる社会主義時代に,牧畜の共同経営体が組織されたものの,牧畜の遊牧的生産方式の基本は守られ,現在に引き継がれている。モンゴル草原に点在するゲルは今,すたれゆく天幕の最後の砦であり,草原に息づく文化遺産のように見える。

モンゴル・ゲルの履歴

 モンゴル高原における遊牧国家が世界史に現れるのは紀元前209年頃,冒頓単干(ぼくとつぜんう)が匈奴国を建国したときに始まり,その後,鮮卑,柔然,突厥,ウイルグ,契丹と覇権を交代し,13世紀のモンゴル帝国に至るのである。これら遊牧国家の住まいに関する史料は乏しいけれど,車に載せた住居があったとの記録があり,人々はこの家屋車で移動していたらしい。しかも,モンゴル青銅器時代(前2千年紀中頃〜前1千年紀初頭)と推定される岩壁画の中に,馬に繋がれた二輪車と住居の線画が発見されており,非常に古い時代から前述した車が付いた移動式住居(家屋車)の原型があったと考えられている(田中暎郎『建築史から見たゲル』)。
 モンゴル国には,モンゴル帝国の壮大な歴史文学書とも言える『モンゴルの秘密の歴史』があり,モンゴル帝国の始祖チンギス・ハンから第2代オゴタイ・ハンまでの歴史の伝承を記録したものである。この秘史は最初,モンゴル語で口伝され,1240年にウイグル人によってウイグル文字で書き写され,14世紀後半に漢字音訳され,『元朝秘史』として広く流布している(村上正二訳注『モンゴル秘史−チンギス・カン物語』。
 この秘史では家屋車に関する記述があるが,その構造は不明である。しかし,13世紀にモンゴル帝国を訪れた漢人やヨーロッパ人の旅行記や江上波夫,村田治郎,内田吟風の研究成果から,その家屋車の構造がうかがえる。すなわち,家屋車には2種類あったらしい。その1つは居室部と車部が固着したものであり,他の1つは居室部と車部が分離でき,停車時には居室部を車部から降ろして地上に設置し,移動時には車部に載せるタイプである。この居室部はフェルトで覆われた構造と思われる。
 モンゴル帝国第2代オゴデイ・ハンの統治時代の1233年,同国に使いした南宗の彭大雅と除霆は『黒韃事略』の中で,穹廬に2つのタイプがあり,その1つは居室部と車部が分離できる家屋車であり,他の1つは組立移動式の住居てある。両タイプの居室部は現在のゲルとほぼ同じ形式であるが,前者の居室部は解体できない構造となっている。
 第3代皇帝グユク皇帝時代の1246年,フランシスコ派修道士プラノ・カルピニはモンゴル旅行記の中で「住居は天幕みたいに丸くて,小枝と細い棒切れとでつくられ,その真中の上端には明かりとりの丸い穴が1つあり,いつでも真中で火を焚くので,煙り出しにも使われる。住居の側面と屋根とはフェルトをかぶせ,戸もまたフェルトで作られる。住居は迅速に取り壊したり,張り直したりでき,駄獣に積んで運ばれる。またある住居は解体ができず,車に載せて移動する。1台の車に積んで運ぶさい,小さいものは牛1頭で十分だが,大きいものになると,3頭,4頭,またそれ以上さえ必要である。彼らは何処へ行くにときも,たとえそれが戦争であろうとも,いつもで自分の住居を一緒に持って行く」(カルピニ&ルブルク『中央アジア・蒙古旅行記』護雅夫訳)。
 カルピニのモンゴル旅行から9年後の1254年,フランシスコ派修道士,ウイリアム・ルブルクは,第4代モンケ皇帝に謁見した際の旅行記の中で住居の様子を記しているが,それはカルピニの記録とほぼ同じである。しかし彼は「それらの住居は大きな作りのものもあり,住居を載せた車の車輪と車輪との間隔は20フィート(6メートル)で,この車を曳くのに22頭の牡牛を使っていた」と記述し,当時の巨大な家屋車を描写している(前出:護雅夫訳書)。
 ルブルクの旅行から20年後の1274年,ベネチアの商人で旅行家のマルコ・ポーロは元朝時代の第5代フビライ皇帝に謁見し,17年間滞在して帰国した。彼の旅行記『東方見聞録』の中で住居について「家は円形で,棒で組立て,上をフェルトで覆う。棒はしっかり結びあわされて骨組みとなるので,非常に軽い。扉はいつも南向きである。また,別にフェルトで覆った車もあり,強い雨でも内部は濡れない。この車は婦人や子供を載せ,牛やラクダに曳かせる」と記している。
 モンゴル高原における家屋車の誕生は長距離の征服戦争によるところが大きく,その戦争がなくなるとともに後退し,16世紀に入ると現在のような組立解体・移動式のゲルが広く使われるようになった。その移動手段は荷車やラクダであり,社会主義時代はトラックも出役している。
 13世紀の後半に起こった蒙古襲来(文永・弘安の役)から730年,モンゴル国と交流関係を結ぶ自治体などでゲルの導入・設置が見られる。遊牧民のステップの住みかは今,モンスーンアジア圏の異国で友好の使者の役割を見事に果たしている。


写真1 現代のゲルを印した切手


写真2 大型家屋車の模型
モンゴル国皇帝が用いた家屋車,四輪車上に固着した居室部はフェルトで覆われ,
ド−ム形天幕の頂部は首のように突き出て天窓となる。車を曳く牡牛は1列8頭ずつ
4列に並び,車上のゲルの戸口に男が1人立って,牛を操る。車の左右に警護の武
人がつく。1998年,国立博物館にて。


写真3 ゲルの風景(1)
冬営地のゲルとホロー(石垣の家畜囲い場,山羊300頭ほど厳寒期の夜間に収容。1992年12月,ゴビ山岳部にて。


写真4 ゲルの風景(2)
夏営地のゲル,手前をに横断する涸れ川沿いに湧水地がある。夕刻,山羊群は搾乳のため牧地から帰ってくる。1993年8月。ゴビ山岳部にて。


写真5 ゲルの風景(3)
モンゴル南部のバヤンホンゴル県・県都における住宅地のゲル,遊牧草原からの流出人口受入れの新築ゲル団地。2002年8月。