ホーム > 岡山畜産便り > 岡山畜産便り2004年4月号 > 〔シリーズ〕モンゴル・つれづれの記(8)

〔シリーズ〕モンゴル・つれづれの記(8)

─遊牧民の住まい(その2)─

三秋 尚

ゲルと初対面

 モンゴル遊牧民の天幕(ゲル)と初めての出会いは今から30年前であった。年を重ね未来への時間を断たれた愚者はとかく過去を語りたがるもので,私はかねがね古い話を持ち出して本誌の貴重なペ−ジを汚すことに引け目を感じており,今回もまたその繰り返となるので,ひたすら読者の寛容にすがらねばならない。
 少年時代,蒙古高原で羊飼いを夢見た私の心象風景は夕焼け空のもと数百頭の羊群を追う牧人のシルエットと家路の彼方に立つ未知なる天幕であった。昭和20年代初期,学生時代に熟読した『蒙古大観』(善隣協会編,昭和13年)で天幕はゲルと呼ばれることを知り,その後『素顔のモンゴル』(小沢重雄著,昭和44年)に収載された一葉の写真によって,真白いド−ム型天幕の端正な姿が網膜に強く焼き付けられ,以来ゲルとの出会いを心当てもなく,待ち焦がれていたのである。
 ところが,僥倖というべきチャンスが到来し,1976年7月29日,巨大な蜃気楼が出現するゴビ大平原にたたずむゲルを訪ねることができたのである。その家の夫妻は突然の訪問に驚くこともなく,ゲルに招き入れ,乳茶と乳製品,そして馬乳酒を振る舞ってくれたのであるが,この所作は遊牧民の接客儀礼であることを後に知った。初めて見るゲルの外観と室内に漂う暮らしの雰囲気に五感は激しくふるえ,長く待ち続けたゲルとの初対面だけに私の気分は高揚し,ふつふつと沸き上がる感動を押さえることはできなかった。その感動は心の襞に深く刻まれ,当時のときめきの気分は今でも鮮明によみがえる。
 前号で記述したように遊牧民の生業は移動によって保障され,ゲルはその移動装置にほかならない。その簡素な建築的構造と設営・解体の簡単な手順によって,ゲルの移動的機能は存分に発揮されるのである。ところで,前出の2つの著作物ではゲルの設営・解体の作業手順は明らかでなく,私の関心はゲルの設営・解体作業に向けられたのである。

ゲル設営の光景

 1988年からは毎年出かけるようになったモンゴル草原の旅は,その時期が夏の季節であり,遊牧民の移動時期と重ならず,ゲルの設営・解体の現場に出くわすことはなかった。しかし好機は1992夏から約1年間,ゴビ山岳部ツェルゲル村で行われた野外調査のグループに参加したためやって来た。
 冬営地へ移動して来たバットツェンゲル(以下ツェンゲルと略称)とフレルトゴーの両家は,9月29日にバットツェンゲル家,翌日にフレルトゴー家で冬用ゲルの設営作業が行われたのである。両家は生産と生活の両面で協力関係(ホタ・アイル)を築いており,ゲルの設営も共同作業である。
 ツェンゲル家では昼過ぎから夫婦でゲルの設営準備を始めた。その準備とは側壁や屋根を覆うフェルトの新調で,以前からの手作りフェルトを成形し,適当の大きさに繋ぎ合わせる作業である。まずツェンゲルは数枚のフェルトを地面に広げ,その中心に棒を立て,その棒から伸ばした紐の先に結んだ炭化した木片(木片の先端を焼いたもので,彼はおどけてモンゴル鉛筆だと言う)で円状に線を引き,それに沿って鋏をいれた。その後夫婦はラクダ毛で作った太い紐で縫い合わせ1枚に仕上げた。これはゲルの屋根を覆うフェルトである。その後も側壁用や敷物用にフェルトの成形と縫い合わせは続いた。
 この作業の合間に家畜群の看視・誘導,山羊の乳搾り,近くの釣瓶井戸からの水くみなど日常的仕事が加わった。当日のフェルト新調作業は5時間ほど続けられ,そして翌30日も午前8時過ぎから午後4時まで断続的に行われた。フェルト新調作業は常にゲルの設営時に行われるものではなく,日本家屋に例を引けば,たまに行うふすまや畳の張り替えに相当するものであろう。この作業は単調である。しかし,91年夏に見聞した数々の工程を経る羊毛のフェルト作りに重ね合わすと,彼らの生活に欠かせないフェルトが手間ひま掛けて丹念に作り上げられる労働はまさしく遊牧の暮らしに背骨を与えている思いがしてならない。
 午後5時からゲルの設営作業が始まった。ゲルの建築構成部分が一定の細かい手順で組み立てられる。その構成部分は本誌前号で略記したとおりである。設営作業はツェンゲル・フレルトゴー両家の夫婦4名で行われた。ちなみにツェンゲル夫妻の年齢はそれぞれ36歳,32歳,フレルトゴー夫妻は26歳,27歳である。
 3人がゲルの設営予定地に家財道具のうち長持4つ,水屋など戸棚2つとゲルの天窓,それを支える柱を円形状に置いた。冬用ゲルでは地面に木製円形の床盤を敷く場合があり,フレルトゴー家ではそれを用いている。次いでその周囲に側壁(ハナ)が張られた。ツェンゲルが3枚を張り,フレルトゴーの妻が残り2枚を張り,それぞれを紐で連結した。冬用ゲルの側壁は5枚,夏用ゲルは4枚が一般的で,彼らはゲルの大きさを5ハナ,4ハナと呼んでいる。側壁は格子状で伸縮自在,伸ばすと高さは154センチ,幅は332センチとなる。
 側壁を張った後で,ツェンゲルは南東面(ゲルの正面)に門扉(幅77センチ,高さ128センチ)を置いた。扉の上部の横木は鴨居といい,屋根棒を固定する穴がいくつか開いている。この門扉と側壁を綱できっちり連結してから,彼は妻と2人で側壁の上段に綱を回して縛った。これまで約1時間を要し,この後でツェンゲルは水くみのため現場を15分間ほど離れた。
 午後6時半から両家の主人が側壁で囲まれた内部の中央で天窓(直径142センチ)を2本の柱に縛って立ち上げた。ツェンゲルが2本の柱を保定し,両家の主婦が梁となる屋根棒(81本,長さ232センチ)の一方の先を天窓の周囲の穴に差し込み,他方の先を側壁上部の格子に乗せる作業を始めた。
 フレルトゴーは天窓の中心から垂れ下げた綱の先に重石を縛って天窓を固定し,さらに天窓の4か所で結んだ紐を屋根棒とともに四方に張り,側壁上端の格子に結んだ。この紐は天窓と屋根棒の配置関係を正しくするためのものである。屋根棒は天窓と側壁を接続する働きをし,屋根棒の配置状況がゆがんでいるとゲルは強風により倒壊しやすい。
 両家の主人が屋根棒の嵌め込み作業に加わり,その作業中にツェンゲルの妻は約15分間ほど屋根部分の1番下に張る白い木綿布を洗った。フレルトゴーの妻はその水切りを手伝った後,水くみに出かけた。両主婦は再び屋根棒嵌め込み作業に加わり,最後にツェンゲルが天窓と屋根棒の配置の歪みを点検した。この作業は25分ほどで終了し,この後両夫婦は先に水切りした白い木綿布を屋根一面に覆った。この後で前に天窓から四方に張った紐を白木綿布の上に出し,2本ずつ交差させて側壁の格子に結び付けた。
 午後7時過ぎ,3人で屋根に張った白木綿布の上に薄いシートを敷き,その上に厚さ1〜1.5センチのフェルト覆いを被せた。次いで側壁にフェルト覆いを巻き,さらに厚めの上質フェルト覆いを重ねた。この頃からフレルトゴーの妻が加わり両夫婦総がかりである。次いで屋根棒上の白木綿布を薄めの布団で覆った後,側壁にフェルト覆いを巻き,さらに屋根にフェルト覆いを被せ,最後は厚めの白木綿布をゲル全体にすっぽり被せた。この作業は40分ほどで終了した。
 午後7時50分,側壁と結ばれた門扉の両側に太めの棒を立て,門扉と結びつけ,この棒を基軸に側壁の上下2段に綱を掛けて強く縛り,5分ほどで終了した。次は天窓に四角形の大きなフェルト製天窓覆いの取りつけである。天窓覆いの4隅に付けた4本の綱のうち3本は常時固定し,ゲルの正面側の1本は天窓覆いの開閉に使う。すなわち,その綱を正面の反対側に引っ張ると天窓覆いの半分が開くのである。最後に保温のためゲルの裾まわりに土を盛り,あるいはフェルトを巻く。
 午後8時10分,設営作業は完了した。その所要時間は2家族4名により3時間であった。この後はゲルの中にカマド,ベッド,その他の家財道具や牧畜用具を搬入するだけである。この冬用ゲルでは,家畜と共に厳寒を乗り越え,山羊,羊の出産を迎える忍耐と喜びの凝縮した日々が約半年間も続くのである。
 ゲルの設営に釘1本も使用せず,羊やラクダの毛,馬のたてがみで作られた綱や紐が巧みに使われ,家畜と共生する遊牧の暮しの一端が垣間見られた。そして設営場所の傍らに積み上げられていたゲルの建築資材は見るみるうちに取り崩され,最後に残った旧ソ連製組立て式ベッドの寝台(ねだい)のスプリングが草原の暮しに忍び寄る都市文明の足跡を告げていた。


写真1 フェルト製覆いの新調作業
ツェンゲル夫妻は黙々と手作りのフェルトを切断・成形し,ラクダ毛の太い紐で縫い合わせる。
その傍らには天窓とそれを支える2本の柱,古いフェルト製や布団様の覆い,敷物,長持など
家財道具の一部が置いてある。


写真2 ゲルの設営作業(1)
側壁5枚を円形状に連結した後,天窓を乗せた2本の柱を立てる。


写真3 ゲルの設営作業(2)
屋根棒(梁)の一方の先端を天窓の周囲枠の穴に差し込み,他方の先端を側壁の格子に乗せる。


写真4 ゲルの設営作業d
フェルト製覆いを屋根に被せ,次いで側壁に巻く作業を交互に行う。
覆いは屋根に3枚,側壁に4枚である。夏用ゲルでは覆いの枚数は
それぞれ1枚程度である。側壁を巻く覆いはその上端が屋根の一部
にかかるように被せる。


写真5 ゲルの設営作業f
フェルト製覆いを屋根に被せ,側壁に巻く作業が終わるとゲル全体に白木綿布をすっぽり被せる。


写真6 完成したゲル
天窓に被せたフェルト製覆いは南東側が半分だけ自由に開く。ここからカマドの煙突が立つ。
ゲル全体は綱できつく縛ってある。ゲルの重量は不確かであるが250キロ程度。