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〔シリーズ〕モンゴル・つれづれの記(10)

−遊牧民の食文化−

三秋 尚

身土不二の食文化

 生活の基礎部分をなす衣食住の中で,「食」は最も根源的かつ反復的な営みであり,本来地域による自然的,地理的,社会的諸条件の違いに強く支配される性質を有している。
 1960年代に始まる高度経済成長の前夜までは,自然の恵みを受けて地場で生産され,近在で採取される食材が,食事を大きく規定し,遠方から運ばれる種類や入手時期の限定された素材を生かしながら,風土や生活に対応した嗜好に合わせて調理方法や保存方法が工夫され,また,季節の行事やハレの食事には,地域の伝統に基づく独特の振りつけの様式が発達し,それらの味や知恵や様式は世代から世代へと受け継がれてきた(田部美博『食文化と地域社会』)。まさに「食」とは,地域の風土と人のかかわりの長い歴史を通じて形成された,その土地の生き方をあらわす典型的なものであり,それゆえに「食」は文化なのである。
 高度経済成長期に突入してからは,市場自由化の進展や円高の定着に伴い,海外から輸入される食料品は地球的規模で年々大幅に増加し,さらに農業技術や保存技術の進歩と出荷・流通システムの高度化により,ほとんどの食材は四季を問わず出回るようになり,今や「旬の味」という言葉は死語になりつつある。それまで伝統的な食文化を支えてきた地域性は希薄化され,それと引き換えに各家庭の食卓は豊かになり,飽食の時代を迎えたのであるが,豊饒な食卓には生活習慣病が待ち伏せ,しかも近代化農法がもたらした食物汚染や牛の海綿状脳症の発生,食肉に始まる食品表示の偽装事件,輸入野菜の残留農薬など,食の安全・安心への信頼を損なう問題が近年続いている。こうした背景から各地で地産地消への取り組みがみられるようになった。
 地産地消とは,地域に密着して形成された伝統的な食文化への完全回帰ではないが,現代の無国籍型食文化への対立軸に据えられる存在であり,そこには「身土不二」という食に対する理念が息づいている。「身土不二」とは身体(身)と環境(土地)は不可分(不二)で,その土地に,その季節に,そして正常な土壌に,自然な農法で作った食べ物を食すならば,身体も自然も正常になれる,という言葉であり,21世紀に期待される生態的環境保全型農法の理念と重なるのである。
 私のいくたびものモンゴル草原行は,わが国各地の伝統的食文化が宿す「身土不二」の理念を想い起こす旅であった。

食文化の形成

 高緯度モンゴル高原の草原生態系に働きかけ,家畜生産物を持続的に調達する遊牧システムは,北アジア史に初めて登場する匈奴の時代(紀元前3世紀〜紀元1世)にはすでに確立されていた。
 農耕を許さない草原の住人は,古代からその風土に適応した遊牧を生業とし,家畜をどのように飼養管理し,生産物をどのように食べるかについて英知をしぼり,草原独自の食文化を育ててきたのである。換言すれば,厳しい自然条件と移動の生活様式,そして異なる食文化との接触などが遊牧の食文化形成に深く関与してきたといえる。
 モンゴル高原におけるモンゴル民族の進出は,13世紀初頭のチンギス・ハーンによるモンゴル帝国の建国に始まる。その帝国はわずか60年でユーラシア大陸の大半を手中に収めたが,14世紀中頃から衰退期を迎え,17世紀末から約200年間は満洲族清朝の統治・支配を受けた。そして1911年,ロシアの支援により清朝から独立し,モンゴル人民共和国が北モンゴル高原に樹立された。この社会主義国家はしかし,旧ソ連の崩壊に連動して1992年に資本主義国家へと大きく変貌し,市場経済の荒波にさらされている。こうした社会・経済体制の劇的な変動にもかかわらず,生態的な遊牧経営は「身土不二」の理念で貫かれ,生業的色彩は現在もなお濃く残されている。遊牧民の基礎食糧は自らが飼養する羊,山羊,牛(ヤクを含む),馬,ラクダの乳・肉,そして社会主義時代の遺産である北部大河川流域で農耕民により栽培される小麦である。
 匈奴の時代,草原の住人たちは主に馬,牛,羊を飼養し,その畜肉と乳製品を常食とし,野獣・野禽などの肉類を食したと伝えられている(史記匈奴伝)。13世紀のモンゴル帝国時代,モンゴル遊牧民はラクダ,牛,羊,山羊に恵まれ,多数の馬を飼養し,その畜肉と多種類の乳製品を常食とし,野獣・野禽の肉を補助的に食し,現代の食事メニューに比べると,穀食を除けばほとんど変わっていない(カルピニ・ルブルク『中央アジア・蒙古旅行記』護雅夫訳)。
 モンゴル高原における遊牧民の穀食は隣接の農耕民族との接触によって始まっている。すなわち,匈奴は前漢(紀元前202年〜紀元8年)の初期に漢族王朝から米穀を年々贈与され(史記匈奴伝),前漢の中期には大河川流域で局地的に,おそらく漢人による農耕が行われ,このため穀食は貴族の間に広まり,さらに漢地に隣接する南部の一部遊牧民にもその風習が見られるようになったのである(前漢書匈奴伝)。その後,この高原に進出したモンゴル遊牧民に穀食の風習が広まり始めたのは,14世紀に漢人から小麦,粟などの穀類を入手できるようになってからである。そして高原における農耕は清朝の乾隆の時代(1735〜91年)に,万里の長城に近い地帯で漢人によって開始され,北部モンゴル高原におけるモンゴル人自身による本格的な農耕は1930年代以降,国土の北部大河川流域に国営農場が設置されてからである。
 茶樹の生育を阻むモンゴル高原において,最初に茶を飲んだ遊牧民はウイグル族で,8世紀半ば頃といわれ,それは唐による周辺諸国との茶の交易によるものであった。中国産磚茶(煉瓦状に堅く圧縮された非発酵の緑茶)はチベット高原にも伝えられ,チベット人の間に飲茶が普及し,その風習は13世紀以降にラマ教とともにモンゴル人に伝播されたといわれる(熊倉功夫・斉藤禎編『世界の食べもの−喫茶の文化』)。しかし,大多数のモンゴル遊牧民が日常的に乳茶として飲用するようになったのは,17世紀末清朝の統治下で磚茶の交易が盛んになってからである。
 このようにモンゴル民族の穀食と飲茶は漢民族の強い影響によるものであるが,肉食と乳食には他民族の食文化による影響は少しもうかがえない。
 チンギス・ハーンと彼の後継者によるヨーロッパ各地への侵攻以降,東西文化の交流が活発に行われた。しかし,その影響は彼ら民族の肉と乳の加工・貯蔵技術には及ばず,その技術は遊牧の移動生活に合わせた,そしてまた自然現象を巧みに取り込んだ民族独自のものであった。たとえば,肉の貯蔵は燻製技術に頼らず,冬期における外気の低温を活用した冷凍保存である。遊牧民は気温が零下10度以下になる11月を屠殺月と定め,大型家畜は数戸の牧家の共同作業により,小型家畜は個々の牧家単位で屠殺・解体する。枝肉は野外で凍結させて収納・保存し,あるいは冷凍乾燥により干し肉として保存する。
 乳加工の分野では,チーズ作りのための乳蛋白質の凝固は,ヨーロッパ乳文化圏で用いられる凝乳酵素(レンネット)によらず,乳加工の発酵工程で得られる乳酸による。また,乳脂肪採取は独自の加熱・泡立て法で行い,しかも脱脂乳から蒸留乳酒を作り,その残渣(乳酒粕)でチーズを作るのである。この乳加工技術は他の乳利用文化圏では決してみられない民族固有のものである。それは厳しい自然環境のなかで得られる乏しい乳の各種成分を無駄なく有効に利用する,遊牧民の暮らしの知恵に他ならない。
 肉の食べ方にも独自の文化がみられる。モンゴル遊牧民は屠体の頭部の肉,内臓,血,骨髄まで食べ,廃棄される部分は骨と蹄だけであり,まさに肉食民族の面目躍如たるものがある。彼らはまた,家畜の肉を熱性と冷性に分け,前者は羊,牛,馬の肉であり,後者は山羊とラクダの肉である。これは飲膳療養と関係があり,1330年,元朝時代の飲膳太医・忽思慧が皇帝の文宗に進献した『飲膳正要』(金世琳訳)に,古代のモンゴルにおける畜肉による飲膳療養法の経験が数多く収録され,たとえば羊肉は熱性に富み,胃脾を温め寒性病を治す効能があるなどと記されている。
 私は大阪外国語大学今岡良子助教授のゴビ地方におけるフィールドワークに同行しているが,遊牧民は私たちを歓待するため羊や山羊を屠殺し,骨付き肉や内臓料理を振る舞ってくれる。彼女の夫エンフジャルガルは屠体が山羊であると察知すれば,小生の老体を案じて,その肉,内蔵,脂肪を沢山食べないようにと注意してくれる。それらは人体を冷やすからである。
 馬乳酒(醸造乳酒)は日常的な飲み物で,大人から幼児まで愛飲しているが,飲膳療養に欠かせない飲み物でもある。必須アミノ酸,ビタミン類(特にビタミンC含量は1r当たり100p前後で,牛乳の約5倍である),不飽和脂肪酸,蛋白質などの栄養分に富み,消化液の分泌促進,腸内不良発酵の抑制などの効果が認められている。このため13世紀以降,馬乳酒による人体の疾病治療は飲膳療養法の中で重要な地位を占め,今日においても結核,壊血病,神経衰弱症,貧血症などの治療に用いられいる。ラクダの発酵乳もまた腎臓と腸の病気治療に用いられ,肝臓病や胆嚢炎にも効果があると言われている。
 このようにモンゴル遊牧民にとって肉と乳は,身体を養うのは当然のことながら,病気治療にも役立ち,「身土不二」の思想は「医食同源」の思想を同伴して,肉食・乳食文化に深層に横たわっているのである。
 彼ら遊牧民は,乳,肉の食べ物に対する感謝の気持ちを決して忘れはしない。家畜の屠殺時には屠体の一片をカマドに投げ入れ,灯明をあげて祈り,家畜の霊を慰める。また,夏から秋まで毎日,乳加工の際に温められた生乳を大地に撒き,蒸留した乳酒の最初の一杯をゲル内のカマドと天に向かって撒き,神々に感謝の祈りを捧げる。
 これらの行為は,肉と乳は苛酷な遊牧の風土がもたらした,人間が生きるためのぎりぎりの食べ物であるという深い思いからに違いない。彼らは自然を畏敬し,その恵みによってのみ生かされている己れの立場を心得ている。遊牧民の食文化とは,地域個性と食の関係を直截に反映したものであり,自然に寄り添う人間の姿見である。