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らくのう夜話
(その時岡山の酪農は動いた)

永井  仁

 本誌編集者から「私の趣味」を書けとの連絡が届いたが,野次馬根性の強い小生には,皆さんの様に囲碁とか,俳句とかの高尚な趣味が無く,その辺に転がっている面白そうだなと思うものに,飛びついたり,難しくて跳ね返されたりの連続で結構楽しい。

ジャージー導入で畜産人の仲間入り

 「古い事をくどくど話し出したら老人だ」と言われる。まだ老人とは言われたくない気もするが,多くの方とはやや違った形?の勤めも経験したので,編集者の意図とは異なることを承知で少し記してみたい。
 敗戦によって仕事を奪われた身には,獣医師開業以外の道は無かった。
 その後地元の農協や役場で馬を牛に乗り換えた形で,診療と和牛の人工授精をしていたが,故郷がジャージー導入に参加することに伴って畜産人の仲間に入れて貰ったのは,昭和28年7月で30歳になっていた。
 以来昭和53年3月まで約25年間お世話になったが,何故か一貫して酪農オンリーともいえる勤めをさせていただいたが,中でも集約酪農地域指定を中心とする組織的な,酪農の基礎固め時代の昭和33年10月〜48年3月までの約15年間も同じポストに居たので,その間素晴らしい舵取りをしていただいた荒木農林部長,惣津畜産課長の名コンビを中心に,脇を固められた先輩や,関係された皆さんのご功績の一端や,エピソードで,表には出なかった事や裏話を思い出すままに記してみたい。
 言うまでも無く小生の見聞きしたことが中心で,生来ずぼらで曖昧な記憶を本に,独断と偏見が主体であることを初めにお断りをしておく。

畜産課に出たが

 最初の勤務地は中福田家畜保健生所から,ジャージー指導を強化するため改組された酪農試験場蒜山分場にお世話になっていたが,民間に在職中と同じ診療と繁殖が仕事で,初めての県の勤めでも違和感はなく,みんなと楽しんでいたところ,昭和33年10月突然畜産課に転勤を命じられた。
 経営係に配属されて,担当は牛乳の消費拡大だったが既に主な行事は終わっていた。
 時の畜産課長は惣津律士さん。経営係長は花尾省治さん。係員は今本香豆彦さん,多田 確さん,竹原 宏さん,小谷恂一さん,三村 剛さんの腕利き揃いだったが,残念な事に竹原さんと小生以外の方は故人になられた。
 係では旭東地域を集約酪農地域指定を受けるための作業中で,ベテランの皆さんでも残業,残業の連続で大忙しだったが,現場のこと以外は全くの門外漢の小生は,邪魔にこそなれ何にも出来ないので,忙しいみんなを尻目に定時に退散し,途中の居酒屋で一杯やって帰るのが日課で,お陰?で体重は65s→75s増えた。

仕事始めは正月2日

 岡山には出たが全て分からない事ばかりだったので,今も世話になり続けている田邊さんのお宅に居候を決め込んで,岡山の正月を楽しもうと目論んでいたところ,1月2日の朝,尊敬と怖さが同居している?惣津課長さんから「家にきてくれ」とのTel。
 早速,田邊さんのスクーターで,恐る恐る門田屋敷の課長公舎にかけつけると,「今まで全国でもやったことのない生乳の需給調整をやるから手伝え」と。
 それは「大手乳業メーカーが,今まで1升当たり74円で買い入れていた生乳を,来年1月から一方的に2円引き下げて72円にすると通告してきた。これでは折角軌道に乗りかけた酪農に悪い影響を与えるので,県が指導して乳価の値下げを止めさせる。」
 具体的には生乳の生産が多い北部酪農協地区=出荷先雪印乳業と,山陽酪農協と高梁地区=出荷先明治乳業から,牛乳の消費が多く,学校給食用の牛乳も不足気味の岡山のオハヨー乳業=生乳出荷旭東酪農協地区に生乳を移動させる=いわゆる「生乳の需給調整」をやって乳価値下げを撤回させる事にしたので,明日までに「生乳の買い取り,売り渡し契約書(案)を作ってこい」と。

酪農組合と乳業メーカー

 当時の生乳の取引価格は脂肪率は3.2%で,1升(1.875s)当たりで,酪農組合と乳業メーカーが協議して決める事にはなっていたが,実際は乳業メーカー側の一方的な通告で決められており,昭和33年は74円であった。
 県内にはいわゆる大手乳業メーカーは竃セ治乳業と叶瘉乳業の2社と地元の潟Iハヨー乳業と轄装ェ商店児島生乳工場中小2工場の外,農協や個人経営の飲用牛乳製造工場数社があった。
 一方,生産者は,酪農専門農協系(生乳約70%)と総合農協で酪農を担当(生乳約30%)の組織に加入して,生乳の協同出荷をしていたが,さらに専門農協の内容を見ると,工場を買収されて,生産組合になったもの,乳業メーカーが集乳地盤を守るために,御用組合的につくられたものがあった。
 しかし,生産者団体も時代の趨勢に押されて,乳業メーカーと対等に交渉するには団結して当たらなければならないとして,昭和33年10月岡山県酪農農業協同組合連合会(以下県酪連)を設立した。

生乳生産が伸びすぎた

 国の酪農振興法等の整備によって全国的に酪農振興機運が高まったため,全国的に生乳の生産は増えてきた。
 一方で,全国的に牛乳消費対策として牛乳の消費拡大や,学校給食用牛乳の供給が行われたが,生乳生産速度には追いつけなかった。
 これに伴って大手乳業側は,バター等の利益の少ない製品の在庫が増えて,会社の経営が圧迫されるとして,全国的に乳価を下げて生産をコントロールして,経営の安定を確保する措置に出てきた。
 それが岡山県では,一方的な1升当たり74円の乳価を,2円下げて72円にすると申し入れに現れてきた。
 県酪連は早速値下げ撤回の交渉を始めたが,個々の組合と出荷先メーカーとの間には長年にわたって様々な形の援助=裏取引があって,実質的な交渉が出来ず12月中旬県に指導を求めてきた。
 県は従来から経済行為には関わることは避けてきたが,放置すれば折角軌道に乗り始めた酪農振興の機運を阻害しかねないとして,始めて経済行為に行政介入することに踏み切る事にした。

全国初の生乳需給調整

 申し入れを受けた荒木農林部長と惣津課長は,年末の休みも返上して県酪連幹部の今井 剛(山陽酪農協=明治乳業)さん,流郷章雄(県北部酪農協(以下北酪という)→ホクラク=雪印乳業)さん,出井 了(旭東酪農協=オハヨー乳業)さん等と協議を重ねたうえで,加工乳が多く発生する1〜3月の間,生産量の多い美作地区と,備中地区の生乳を市乳等の販売と,学校給食用の牛乳を多く供給して,生乳の不足気味の岡山市のオハヨー乳業に供給して生乳価格の維持を図る事にして,オハヨー乳業に協力を要請したところ,同乳業も県の要請を受け入れたので,日量50石(約9トン)の生乳を「需給を調整」することにしたが,これは全国でも初めての事業だった。

好物の餅の味が分からなかった

 こう記してくると,あたかも小生が内容を承知して動いているように見えるが,本人は知らないのを良い事に,怖いもの知らずで,がむしゃらに動いているに過ぎなかった。
 「ハイ」といって契約書作りを安易に引き受けたが,何から手をつけて良いか分からなかったので,その足で今本先輩を尋ねてアドバイスを受けて,正月休みで人気のない県庁7階に一歩ずつ上がって一連の参考資料を探して,やっと「生乳の買い入れ,売り渡し契約書」(案)らしきものを書き上げて,翌1月3日惣津課長さん宅へ伺った。
 待ちかねておられた課長は,早速赤線で全面的な訂正,その場で清書して課長をスクーターの後に乗せて荒木農林部長宅へ向かった。
 荒木栄悦農林部長を知る方はもう少ないと思うが,出身は島根県平田市で,旧制の平田実業学校を出られただけで,旧自治省を経て岡山県の庶務課長に着任,次いで農林部長に昇任された後,最後は副知事まで上り詰められた方で,県庁きっての切れ者と評されていた。
 当時は,農林部長室に出入りするのは惣津課長だけという恐ろしい方?のお宅に初めてお伺いしたので緊張の極み。
 お二人の協議と契約書作りは約2時間以上続いたが,その間奥さんから好物の正月餅の焼いたのを出していただいたが,緊張してその味がわからなかった。

起案書の印鑑の数は54ヶ

 1月4日は仕事始め,生まれて初めての起案書作りを,先輩のアドバイスを受けながら,(案)らしきもの作って惣津課長に。
 惣津課長は一読のされるや赤鉛筆で全面訂正,これを清書すると惣津課長自ら部長決裁へ,まもなく惣津課長が黙って小生の机の上にポイと置かれたのは,荒木農林部長の手で赤字に塗られた起案書だった。
 この事業は緊急を要するため知事の専決で行われたので,知事部局だけでなく,出納局の承認も受けたが,難関の第一は自治省出向の若い財政課長さんが赤鉛筆で「知事専決は適当でない」と大きく書かれて,印鑑を逆に押された事だった。
 これを見た副知事さんは「財政課長が適当でないと言っているので困った」と言って認めて貰えないので,惣津課長が直接三木知事に決済をうけられて,副知事より前に知事決済をすますという一幕もあった。
 全ての決済を終わって印鑑の数を数えてみると54ヶもあった。

乳業メーカーの抵抗は頑強

 生乳を供給するのは県酪連だがそれは建前で,実際に生乳を左右するのは乳業メーカーで,生乳を動かすとなるとその了解が必要だった。
 交渉は乳業メーカーに出荷する組合の県酪連幹部が行い,県がサポートをする形で行われた。

●雪印乳業

 乳量の3分の2を供給する雪印乳業には,北酪の流郷組合長が当たられたが,同社は県が美作集約酪農地域の基幹工場に指定していた,北酪の練乳工場が業績不振に陥り,これを救うため惣津課長が潟Nローバー乳業に買収させたが,その後同社と雪印乳業と合併して岡山に進出したものだった。
 同地域の酪農家および関係者は雪印乳業に対して,北部酪農協と同じ様な親しみを感じており,集乳地区の隣接するオハヨー乳業に生乳を供給する事には,雪印乳業よりむしろ酪農家の方が拒否反応が強いくらいだったので,酪農家の信頼する流郷組合長と惣津課長の説得によって割合早く解決した。

●明治乳業

 同乳業の岡山進出は極めて早く,大正12年に笠岡市に設立されていた且R陽練乳を,昭和11年に吸収合併して以来笠岡市絵師で操業していた。
 明治乳業と言えば,市乳と言うイメージが強いが,笠岡工場は同社の西日本の全脂粉乳製造の主力工場で,備中集約酪農地域の基幹工場にも指定しており,工場側も最新鋭の全脂粉乳製造機械を整備して,生乳の生産増加に対応を完了したばかりだった。
 工場長の瀬戸口さんは,岡山の酪農振興には他に先駆けて寄与したという,誇りとプライドを強く持っており,中小メーカーのオハヨー乳業如きに,生乳を供給するなどもってのほかだという意識を強く持っていた。
 交渉に当たったのは山陽酪農協の今井組合長さんだったが,今井さんはベテランの県会議員さんで,経済関係の交渉は苦手な上に同社との長年の縁で交渉はし難いらしく,惣津課長の命で参加したが,大きな壁に突き当たった感じで交渉は進展しなかった。
 現地での交渉は無理と見た荒木部長と惣津課長のコンビは,交渉の場を本社に移して強く要請されて決着を見たが,実施は大幅に遅れて1月末からになったが,全国初の「生乳の需給調整」による乳価の維持は達成され,岡山の酪農は大きく動いた。