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〔回 想〕

岡山県乳牛育成場の思いで

岡田 和明

 先日,畜産協会から投稿依頼の電話があり,書く種が無いとお断りしたところ“種屋におるお前に種が無いはずはない”と言われ,お受けした次第である。

はじめに

 昭和37年〜41年(1962〜66年)の3年間,真庭郡川上村三木ヶ原(当時の岡山県知事三木行治氏が命名)に,「岡山県乳牛育成場」(以下,育成場)と言う施設があったのを記憶されている方,知っておられる方がいらっしゃるでしょうか?
 その頃のジャージーは,放牧に適しているといわれていながらも,殆どが育成期に舎飼いであった為に,体質が虚弱で耐用年数が短く,繁殖障害が多かった。
 そこで,岡山県は昭和36年(1961)からその三木ヶ原に大規模草地造成事業で78haの改良草地を造成し,翌37年3月に工事が完了,育成場が設置された。
 現在の中四国酪農大学の第2牧場で休暇村への道路から北に少し外れた草地である。
 草地管理,放牧技術等の知識も経験も全くない小生,昭和38年5月10日付で,育成場の勤務を命ぜられた。
 当時,小生,美甘家畜保健衛生所に籍を置き,蒜山にはジャージー牛の衛生検査・生産検査に度々出向いていたが,「山中」(=さんちゅう)と呼ばれていた蒜山が仕事と生活の地になるとは夢にも思っていなかった。
 発令後,挨拶かたがた下見に行くと,ポプラ並木の入り口から事務所までの道路は完成しておらず,38豪雪の残雪の雪解け水でどろどろの‘くろぼこ’道であった。
 事務所にお伺いし案内を受けたが,確かまだ電気が来ていなかったと記憶している。勿論,電話もなかった。小生に与えられた宿舎も同様であった。これでは,妊娠5ヵ月の妻を連れて行くわけにもいかず,取り合えず単身赴任することに決めて義兄の運転するオート三輪車で,妻の実家勝山町の神代から家財道具を運んで宿舎に入れた。
 場長の浅羽昌次さん,常守実さんとの3人の生活が始まった。歓迎会は,事務所のダルマ石炭ストーブを囲んで鯖のぶえんの丸焼きをつつくのには,度肝をぬかれた。
 施設は,管理事務所,宿舎,車庫兼倉庫,避難舎2棟と広大な78haの草地である。車両は,250tのホンダドリーム,中古のホードトラクターと草地管理用のトレーラー,バリカン型のモアー,牽引式のブロードキャスター,集草機等であった。
 業務内容は,蒜山地区,湯原町,美甘村,新庄村の酪農家からジャージーの育成牛を預託して,10月まで昼夜放牧で育成管理するのが中心であった。
 2年目から,蒜山三座に広がる改良草地から生産された牧草を収穫し,県下の酪農家へ供給する乾草調製事業も始まり閉場まで続いた。

預託開始

 赴任早々,翌日から,預託牛の入場準備である。管理事務所に一番近い牧区(約10ha)を,3区に区切る作業から始めた。当時,販売されはじめた頭に碍子の付いた約1mの塩ビ管を5〜6m間隔に立て碍子に8番線(針金)を張って,線に当たる草は鎌で刈り取り電牧の完成である。ところが次の日になって見ると草地に起伏があるので,凹んだ所の線は碍子から外れて浮き上がり,凸んだ所は引っ張られて倒れていた。細い針金でくくり付けたり,添え木で補強したりして,なんとか無事に5月23日の預託牛を迎える日が来た。
 早朝から,畜産課草地係,県立酪農大学,家畜保健所の応援で現在のスラリータンクのあたりに繋ぎ場を作り,預託牛の受付を始めた。


預託牛の受付

 個体のチェック・健康検査をし,右臀部に大きく白髪染めで受付順に番号を書いて草地に放した。1年目は,63頭を預託したが,最初の仕事は電牧への学習であった。線に当たり後退するは当たり前だが,猛然と突進して脱柵する牛の教育には苦労した。
 順調に放牧が進んでいたが,放牧牛の悪戯が始まった。固定柵の内側に植えていた直径5〜6pのポプラの皮を齧り始めた。急遽ポプラの幹から2m程内側に電牧を張って難を逃れたが,折られたポプラは仮植えしていた苗木を補植した。
 預託牛は,全頭育成牛だから預託期間中に妊娠させて終牧し,農家にお返ししなければならない。発情を発見したら捕まえるのが大変だった。発情牛だけを捕まえるのは至難の技なので,「ホー,ホー」と声をかけながら手をたたくと,カウベルを付けたボスを先頭に近くに寄ってくる。(カウベルは,浅羽場長がニュージーランドに出向かれたとき持ち帰られた品で,貴重品であった。)その中から,発情牛を避難舎のあるバドックに追い込んで捕まえ授精をしていた。


発情牛の捕獲

 しかし,努力のかいもなく数頭の不受胎牛がいて,謝りに歩いた苦い思い出もある。

乾草調製

 2年目から,場内の余剰草と蒜山三座の麓に広がる団地で生産された牧草の乾草調製事業が始まり,育成場に火力乾燥施設と県下で最初のヘイベーラーが導入された。
 半乾燥された牧草を梱包し,乾燥室に積み上げて重油バーナーの熱風を送り,乾草を調製し県内に供給する事業で,初荷は勝山町だったと記憶する。
 昼間,梱包と運搬,夜間,乾燥と大変な仕事であった。ヘイベーラーの各団地への移動はトラクターで牽引しての未舗装でソロバン道の県道7号線(現在の国道482号線)を往来したものである。
 一日中ヘイベーラーで梱包作業をしていると,その頃のツナギはチャックでなくボタン止めだったので,くろぼこで全身真っ黒になり毎日の洗濯が大変だった。
 預託牛の授精に手が回らなくなったが,授精師の野川英夫さんの応援で事無きを得た。

終牧後

 10月で預託が終了し,牛が里に帰った後は鳴き声も聞かれなくなり,急に寂しくなり腑抜けがして,我々も里が恋しくなったものである。
 それでも,気を取り直して,来年の預託準備にかかる。
 不食過繁草の刈取り(掃除刈り)・糞の撒き散らし・追肥・そして牧柵の線降ろしである。固定牧柵の4本の線を張ったままにしておくと雪の重みで切れるので,釘を緩めて下げる作業である。(当時の牧柱は,直径15p位の丸太棒)
 そして,雪が来ると,場内の見回りと称して,毎日備品のスキーで草地の斜面を滑っていた。先生は,常守さんで,お陰で1年でボーゲンが出来るようになった。
 それと,畜産課の若手の方がスキーにお出でになるお相手だった。スキーよりもウイスキーの相手の時間の方が長かったかもしれない。


スキーで場内巡視

 春先,雪解けになると最初の仕事は,草地の危険物の掃除である。スキーのエッジの切れ端,ストックの破片等々。中には,硬貨・時計など貴重品が雪解けの中に見つかった。預託牛の管理と乾草調製の時期の体力作りの為にも毎日楽しみながら歩いた。
 引き続いて,牧柵の修復である。秋降ろしていた固定牧柵の線上げと切れた部分の修理である。バラ線で傷だらけになった手に冷たい雪解け水が付いて腫れあがって痛かったのは,今でも忘れられない。ポプラを保護している電牧も直し,早く大きくなれと根元に肥料も施した。
 5月になると,預託開始で2年目・3年目は120頭前後を預かった。

私生活

 実家に預けていた妻が6月で仕事を辞め,蒜山の暮らしに合流した。
 日常の買い物は,小生の担当で求める品物のメモを持って上福田や中福田まで,オートバイを拝借して出かけていた。
 9月26日,八束村の母子センターで長男誕生,育児の相談をする人もなく不安な毎日であった。案の定母乳の出が悪くなり,2日に1升のジャージー牛乳を湯船の酪農家に貰いに通った。お陰で大病をすることもなく,成長し小学6年生の時,健康優良児に選ばれたりし,身長185pの大男になっている。ジャージー牛乳様々である。
 昭和40年5月,義父から鯉幟の贈り物がついた。早速,竹竿を立てて上げたが,大山降ろしの強風で風車はたちまち飛んでいってしまった。それでも息子に上げてくれとせがまれ,大風が吹かない日は楽しみながら上げていた。三木ヶ原に上がった鯉幟第1号であっただろう。


三木ヶ原に上げた鯉幟

 感激の思い出は,3年目の昭和40年8月に,皇太子殿下(今の平成天皇)が行啓され白樺の丘から育成場をご視察されたとき,特別奉迎者として丘の麓に立たせて頂いたことである。ジャージーの放牧に大変関心を示されたご様子であった。
 そうして,終牧を迎える頃から,財団法人中四国酪農大学校への移譲の構想が始まり,昭和41年3月31日で3ヵ年間の歴史を閉じ,小生は酪農試験場へ転勤を命ぜれられ家族3人,実は4人(妻は,次男妊娠中)で色々な思い出のある蒜山を去った。

 昔話をだらだらと書いたが,ほぼ半世紀前のことなので記憶間違いの点はお許し願うとして,書きながら蒜山が懐かしくなり,先日体育の日に妻と出かけてみた。
 育成場と国民休暇村の建物しかなかったところに,ヒルゼン高原センターのレジャー施設・レストラン・売店が建ち並び,道路は車の行列,駐車場は満車で人の波,波…。
 白樺の丘の駐車場の縁石に,腰を落として東を見ると,ポプラ並木が無い。あれだけ可愛がってやったのにと胸が熱くなった。もう蒜山ヨーグルトのパッケージで見るだけしかないのかと,ヨーグルトを買い求め二人で食べて空を持ち帰り飾っている。
 少し,南に目をやるとありました。一本松はしっかり残っていたのである。懐かしいので車でそばまで行って眺めた。当時と変わっていない樹勢である。すぐそばの茶屋の主人と話したが,育成場があったのをご存知ではなかった。時の流れを痛感し帰路についた。

 筆を置くに当たり,僅か3ヵ年間ではあったが岡山県畜産の発展に寄与したところに勤務したことに感謝するとともに,我々三人の家族を暖かくご支援くださった蒜山の皆さんに御礼申し上げます。

(社)家畜改良事業団岡山種雄牛センター勤務