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らくのう夜話
ジャージーの脂肪率が下がった
(生乳の県営検査はここから始まった)

永井  仁

始 ま り

 年度が改まった昭和34年の7月のある日,当時の二川農協(後の湯原町農協→JA真庭)の専務理事で,ジャージー振興協議会長の遠藤さんから「この春頃からジャージーの脂肪率が下がった。メーカーに言ってもホクラクに頼んでも取り合って貰えない。なんとかし原因を調べて貰えないか」との一本の電話。
 「何か証拠になるものは無いか」と尋ねると,早速昭和33年暮れから昭和34年6月の間の脂肪率の検査表が送られてきた。
 調べてみると昭和33年度暮れまでの検査表の脂肪率はいずれも高く(当時はニュージーランド産が主力で脂肪率が高かった),5%以下になったことは一度も無かったが,昭和34年4月以降になると突然4%以下になり,ひどい時は3.6%に下がっているのがはっきりしていた。

徹底的にやれ

 係の皆さんに諮ると,みんな驚いて色々なケースをあげて検討はして貰えたが,「雪印ともあろう大メーカーの検査に誤りがあるはずは無いだろう」とか,「新しい酪農地帯だから飼養管理に問題があるのでは」とか,常識的な意見で目新しい原因らしいものは出なかった。
 そこで蒜山ジャージーの指導と取引を担当している,岡山県北部酪農協(後にホクラク→岡山県酪)に尋ねると,「蒜山から言ってきてはいるが,雪印に限って絶対に間違いはない」と木で鼻を括った様な答。
 雪印乳業に尋ねたが勿論「メーカーを馬鹿にするな」的な答。
 しかし実際に検査表に差のある事実は放置できないので,一連の資料と,調査した事を惣津課長に報告すると「ぐずぐずせずに直ぐ徹底的にやれ」と一喝され,さらに「技術的な事は酪農試験場と相談してやれ」と知恵までつけて貰った。

酪農試験場で同一サンプルを検査

 早速酪農試験場に飛んで蔵知場長にお会いすると,既に惣津課長から電話があって,「全面的に協力してやる」と上原酪農部長(上原所長のご尊父)以下のスタッフが集まって協議した結論は,雪印乳業が検査するものと同一のサンプルを,酪農試験場でも検査して比較してみる外は無いだろうと言うことになった。
 一つ心配になったのは検査方法の違いだった。当時は現在の様な精密機械は無く,時間と熟練を要するゲルベル法か,バブコック法で行われていたが,酪農試験場はゲルベル法で行い,雪印はバブコック法(乳業メーカーはこちらが多かった)で検査していたので,異なる方法で検査して,両者の検査結果に誤差があっては問題になるのでは無いかと言うことだった。
 そこで当時乳質検査に権威のあった(社)全国乳質検査協会(現在は解散)に意見を求めると「目的は比較検査なので,同じ程度の熟練者の検査であれば問題にしなくても良い」との回答を得たので,関係者に連絡するとともに,雪印乳業にも通知して,8月〜10月の3ヶ月間,同一サンプルの検査に踏み切った。

検査結果に大きな差が出た

 早速検体のサンプリングには特に注意して貰って,雪印乳業と同一サンプルを酪農試験場で検査をした。
 第一回目の検査結果を固唾を呑んで待っていると,酪農試験場から届いた報告は,検体は全て5%以上であった。
 他方雪印乳業にも検査結果の報告を求めて結果を見ると,前に蒜山から送られた検査と同じ様に4%を超えるものはなく,両者の検査結果には明らかに差があった。
 この検査結果について雪印乳業は,自社の検査の正当性を強く主張したので,両者の検査員を相互に立会検査をさせたが,検査員同士がお互いの技術を納得したので,雪印乳業も漸く非を認めた。

原因は遠心分離器の回転不足

 事態を深刻に受け止めた雪印乳業は,本社から専門スタッフの応援を求めて徹底した究明を行った結果,遠心分離器の回転数が不足して正常な脂肪率が測定されていなかったことが究明された。
 さらに回転数不足の原因を調べると,遠心分離器の動力源のスチームタービンに送られたスチームの温度が低く,圧力不足で規定通りの回転が出ていなかったと言う初歩的なミスであることが分かった。

騒動の終わりは

 雪印乳業は全面的に非を認めて謝罪するとともに,津山工場の工場長以下3人の幹部を更迭し,生産者に対しては対象期間中の乳量に相当する,脂肪スライド分の金額を,保証金として支払って幕を引くことが出来た。
 これも惣津課長の時を移さない決断によるものだった。
 因みに当時の生乳取引は,乳量に対して支払われるいわゆる乳価の他に,脂肪率3.2%を基準にして0.1%±する毎に83銭スライドされていた。
 このスライドは,ホルスタインには上限がなかったが,ジャージーに対しては4.0%以上の脂肪超年率に対してはカットされるという差別が有った。
 なおこの差別が撤廃されたのは昭和43年だった。

生乳県営検査の要望高まる

 大メーカーが脂肪率検査をミスしていたと言う重大な事実を知って,それまで大メーカーのやることについては,無条件で信じていた酪農関係者はショックを受けた人が多かった。
 先の「生乳需給調整」の結果と,今回の脂肪率検査の解決によって,酪農家の県に対する信頼と親しみは一挙に増して。ついに乳業メーカーの脂肪率検査は信頼できないから,県営で検査して欲しいとの声が高まってきた。
 しかし脂肪率検査を実施するには,機器の整備に相当の経費がかかる上に,検査要員の確保という大きな問題があって簡単に引き受けられなかった。

家畜保健衛生所が統廃合

 丁度同じ頃,県内に本支所併せて28ヶ所あった家畜保健衛生所を統廃合し,併せて主な家畜保健衛生所に繋がれていた和牛の種雄牛を,和牛試験場で集中管理されることが具体化されることになった。
 これに伴って長年種雄牛の管理と授精を担当している仲間の処遇に関する問題が浮かび上がった。
 そこで酪農家が要望してきている生乳検査を,家畜保健衛生所で対応して貰えないかと相談してみた。
 一部には異論もあったが,家畜保健衛生所担当の今本主幹から「検討しても良い」との前向きの発言があり,その後家畜保健衛生所の所長さんとも相談されて,引き受けても良いとの方向が固まった。

徴収した手数料は特定財源に

 これで要員と検査場所は確保できる目途はついたが,次は経費の捻出と乳業メーカーの了解という大きな問題が控えていた。
 県内のメーカーは好意的に受け入れたが,大メーカー特に雪印乳業が強く抵抗した。
 しかし同社のミスが酪農家の怒りを誘発して,盛り上がったことを悟って,間もなく了解して更に具体化が進んだ。
 次は検査経費で,これは酪農家とメーカーが折半で負担するが,徴収した手数料収入は,生乳検査以外には使わないことで双方了解し,渋る財政課も説得して事業を始めたのは昭和41年度だった。

生乳の争奪戦始まる

 これは余談だが,国の酪農振興策が浸透するに連れて,全国的に生乳の生産は増え,曲折はあったが飲用牛乳の消費も漸次増加して,生乳の供給不足をこす地域もでて,今では考えられないような生乳の争奪の戦いが始まった。
 岡山県でも大手メーカーは明治乳業と雪印乳業で,両者とも乳製品製造工場で,飲用牛乳の製造販売は地元のオハヨー乳業と農協と個人経営の乳業工場が主力であった。県北に集乳の拠点を持った雪印乳業は,生乳の不足する阪神への供給基地とした上,県南の水島酪農の飲用牛乳処理部門を買収して,飲用牛乳販売に本腰を入れ始めた。
 また岡山に基盤の無かった森永乳業は,津山市の東洋乳業を買収して北酪地区に楔を打ち込み,さらにカルピス食品工業は,児島に位置していた国分商店児島生乳工場を買収する動きがあった。
 その上東西の県境から,東は雪印乳業姫路工場が,西からグリコ乳業が県境を接する地区の酪農家に対して誘いかける等,酪農家に動揺の動きが見られたが,これの沈静化にも県営検査が一役買うという副産物的事実もあった。