ホーム > 岡山畜産便り > 岡山畜産便り2007年5・6月号 >大先輩に導かれて

大先輩に導かれて

馬場 克之

 「歳月人を待たず」と言いますが,時は瞬く間に過ぎてまいります。
 私は県職員を辞して以来,すでに14年を経過し,畜産課に行きましても幹部の方しか知らなくなってしまいました。
 県をやめてから10年間は当時の湯原町長の求めるままに,町立湯原温泉病院の事務長を勤め,そののち農業に従事しておりましたところ,思わぬめぐりあわせがあって,今は「JAまにわ」の代表理事組合長として老骨に鞭打っているところであります。
 ご承知のように,今の農村の状況は政府の高度成長政策の推進と,その後の急激なグローバル化の進展により,金銭至上主義の風潮が蔓延し勝者優先の競争社会となってしまいました。このため,地方の過疎と少子高齢化がさらに進み,農業者が少なくなり,米をはじめとする農産物の生産高は減少したうえに農産物価格は低迷し,農業所得は年とともに少なくなり,農村と都市,農業と商工業との格差はますます拡大するばかりであります。
 そうしたなか,農協という組合員による組織体ではありますが,会社と同様の企業体の経営責任を担っているところであり,「もう年なのに,どうしてこんな生活をしているのだろう」と自問しながら,日々をおくっている昨今であります。
 しかし,一方では,こうして産まれた地域のためのお手伝いが出来るのも,今は亡き両親と,県庁時代に私を導いてくださった諸先輩のお陰と思い,心から感謝しているところでもあります。
 この度,畜産協会から寄稿依頼があり,次のような出来事を思い出しましたので,述べてみたいと思います。
 あれは,昭和41年だったと思いますが,当時和牛子牛の価格が非常に不安定であったことから,中国5県(兵庫県を含む)の和牛生産県の間では子牛価格安定対策を実施したらという考えがあがっておりました。こうした時,中国四国農政局が四国4県を含めた9県によるその検討会議を皆生温泉で開催しました。その会議に,私は畜産係の技師でありましたが,係長の都合が悪く私1人が出席しました。予想どおり会議は何の実りも無いまま終わり,旅館で一人寝ていると,8時ごろだったでしょうか,鳥取県の畜産課長からあるスタンドに来るよう呼び出しがありました。その課長の名は加本一久,岡山県の和牛試験場長や酪農試験場長を経て鳥取県の畜産課長になられた方で,私が20代後半,和牛試験場で3年間薫陶を受けた私の大先輩でもあります。
 指定されたスタンドには鳥取県庁の和牛関係職員5〜6人名がおられましたが,入るや否や,いきなり「馬場,お前はなぜ発言しなかったのか,しっかりしろ」と一喝されました。岡山県の職員が鳥取県の畜産課長に叱られる筋合いはありません。私は水割りを飲みながら食い下がりました。課長も会議に不満だったのです。
 そのわけは,もともと中国5県は子牛の生産県であり,四国4県は子牛の消費県であることから,同じ席に着くこと自体に問題があるということを君も思っているだろうし,私も同じ考えだ。にもかかわらず,うちの職員(鳥取県)も発言しなかったが,君も考えを言わなかった。私は地元畜産課長という立場上,言いたくても言えない。もし君達が発言して会議が紛糾したら私がまとめる積もりでいた。そうなると会議の結果はおのずと違ってくる。と言うことだったのです。
 要するに,このことに限らず「君達は若いのだから考えていることは遠慮なく,どしどし発言し主張したまえ。もしその主張がその場で通らなくとも,世の中の流れに合っている正しい主張であれば,必ずのちに生きてくる。馬場君とは今後,話す機会もなくなるだろう。これが君へのはなむけだ。まあ一杯飲め。」ということでした。
 今から思うと,その日を期して私の生きざま,仕事との取り組み姿勢は大きく変わったような気がします。この大先輩こそ私の「人生の師」である。と懐かしく思い出したところであります。