ホーム > 岡山畜産便り > 岡山畜産便り2007年7月号 > 思 い 出

思 い 出

天野 省吾

 急に「岡山畜産便り」への原稿執筆依頼が届き吃驚した。というのも先般発行されたOB会の記念誌の際,考える元気,書く元気も無くなったとご返事をさせていただいた矢先のこと。時間もないので断ることもできず,以前書き残していた資料を基に「思い出」として書かせていただくことにした。余りに私的なことばかりで,皆様には失礼と重々承知していますが,ご容赦願いたいと思います。
 昭和40年頃,大阪駅の地下の通路で手相見の方に,小生の手相を見てもらったところ,あなたは定職に就いているか。職を転々とする運勢の持ち主だから用心しなさいとのことだった。その時は県の方で世話になっており何とも思わなかったのだが,よく考えてみると同じ職種を動いたり,ペーパー上の動きもあり,よく当たるものだと感心したものである。こうした動きを思い出しながら,色々経験したことなど順次書いてみたいと思う。

1 自宅にて

 昭和34年頃は不況時代でした。私自身自衛隊へ行きたいと思っていたのだが,何せ体重が不足して受験できず残念だった。
 一般は月給7千円〜8千円であったが,自衛隊へ行けば1万3千円位で大変魅力的であった。
 当時,農業もまだ安定しており家に居ることにしていたが,親も一度は外に出てこいと心配してくれたおかげで,岡山の方でお世話になることになった。これには,農業改良普及員資格試験を岡山県で受けたこと,色々お世話になった一宮の故黒住久弥先生,大先輩の惣津課長のお陰があった。

2 畜産会

 当時畜産会は,桑田町の県畜連(岡山県畜産販売農協連合会)の2階に事務所があった。この中には,県酪連,全国和牛登録協会の事務所も同居していた。県下の郡畜連の主だった方々の出入りが多く大変にぎやかであった。会長は高梁市の大河寅蔵氏で,その下に総社市の佐野正民氏,前田武郎氏が居られた。昭和34年7月からここで小生がお世話になることになった。
 主な仕事は,経営診断もさることながら,畜産の盛んな時期でもあり,色々な講演,各種発表会が開催され,これらの内容を録音し,それをダビングして,県関係,団体に配布したり,印刷して送付することであった。
 この頃,畜産団体にも大きな動きが始まっており,統合問題が浮上していた。この合併作業の事務もあり忙しく,寝泊まりは事務所の一部で過ごさせて頂いた。県畜連は,岡山県総合畜産農業協同組合連合会(総合畜連)そして経済連へと名称が変わっていった。
 この時期,特に酪農に対する施策が次々と施行され,市町村に酪農担当者が配置されるなど徹底した指導と振興策がとられていた。
 昭和34年10月から「産乳能力検定指導事業」,35年には「乳質改善指導事業」が,国の助成で県の事業として実施された。
 私の記憶では,県下6カ所の家畜保健衛生所を拠点に3カ年実施されたと思う。
 私には,産乳能力検定指導事業で長浜家畜保健衛生所を担当するよう,県から要請があり,本事業に携わるようこととなった。本事業を通じて経験したことが,後に大きく役立ったように思う。
 当時の畜産課の酪農担当者は,故竹内秀雄氏で,担当者の所を度々訪れて親切に指導をして下さった。特に,私にとって竹内先輩には始終お世話になった大恩人である。早く亡くなられたのが残念でならない。 ここまで書いて,紙面の関係で筆を止めることとなった。もし機会が与えられれば色々経験したこと,失敗したことなどを書いてみたいと思っているが,先のことは全く不明である。