ホーム岡山畜産便り岡山畜産便り2008年1月号 >一期一会を大切に

 

一期一会を大切に

岡 本 孝 哉

 「人間一生酒一升有るかと思えば後わずか」歳月は人を待たず。この世に生を受けて早や84歳よくぞ今日まで生きた事を感謝しています。
 さて,人間誰しも行かねばならない黄泉の国,死亡年齢適齢期となり,黄泉の国行き認定証と片道切符を某寺院より頂きました。切符は四枚で自分の好きな物を選ぶようにとのことでした。ご入用の方はご連絡ください。無料で差し上げます。
 切符の名称(院号)
 第1 自転車院(自動車院)転落居士
 第2 焼酎院御燗上出来居士
 第3 貧困院無銭大食居士
 第4 屁道院一発大砲居士
 さて,私は今日まで一期一会を大切にしながら出合い,ふれ合い,結び合いを大切にしながら,現在まで生活して来ました。長い人生には上り坂,下り坂の時もあり,もうひとつ思いがけない時遭遇するマサカという坂で運命に左右される事が多いようで,良い時悪い時両方のマサカで私の84年間の人生の中で大小色々ありましたが,四つほど大きな坂を書いてみます。この坂が今日の私の生涯に役立ったことか少し書いてみます。軍隊時代の第1のマサカ。昭和19年8月徴兵検査三乙種の私が軍隊に行くことはまずないと思っていた時,マサカの臨時招集令状。内地勤務と思いきやマサカの外地入隊。3日目に北支方面軍山西省派遣の部隊へ。初年兵教育3カ月間は激しい猛訓練。冬は零下20℃,夏は40℃を超す山西省独特のきびしい気候条件。然も2000m位の岩山の大行山脈の盆地。夜は内務班で軍人精神を叩き込こまれ,顔が変形するかと思われるほどなぐられ,意地悪い古年兵に陰湿な精神的制裁。夜行軍訓練は一夜に20q。体重より重い装具をつけて強行軍。逃亡と思うも戦地のこと。何時もアゴを出し,アゴスケ二等兵と呼ばれていた。先般戦友会に出席し何年ぶりかの同等兵が「岡本未だ生きていたか」とうれしいやらなつかしいやら。戦病死第一候補者が私だったとのこと。教育終了後,中隊配属,広大な占領地域の警備へ。3日に1回中共軍の討伐戦。重い軽機関銃を肩に1カ月後,旅団司令部獣医部へ転属。部長の助手的な仕事を。部長命により幹部候補生採用試験を受験。余り気がのらなかったがマサカの合格。獣医師甲種幹部候補生として南京に新設の教育隊将校教育を6カ月。8月に終戦,昭和21年3月復員。後,県職員となり,畜産関係職場を転々。昭和30年,美作家畜保健所勤務の時,第2のマサカ。集団検診で肺結核の宣告。入院し1年余り。この間右肺切除手術。モルモットにはなりたくなかったが,術後復職。農林事務所,畜産課,和牛試験場等54年4月に県退職。衛生指導協会へ就職(現畜産協会)61年6月まで7年間何にも船長,言うことは機関長,後で航海長でした。退職後は故郷で民生児童委員,地区社協会長,県知的障害者相談員協議会理事,精神障害者作業所支援ワーカーと福祉の道を歩んで来ました。この間に3つ目のマサカ。一昨々年テレビ東京放映の「田舎へ泊まろう」の一行が拙宅に一泊。スタッフは吉本興業専属タレント友近さんで,なかなかの美人。夜おそくまで馬鹿話しに花を咲かせました。そして,4つ目のマサカ。昨年10月,岡山県総合福祉大会でマサカの県知事表彰。これといった功績もなく,当たり前のことをしただけで,恐縮している次第です。今日まで,私が元気で過ごすことができましたのは,生涯を通じて第一のマサカ,第二のマサカがあったことと思っています。現在,長年労苦を友にした家内が体調不良(心不全)となり,福祉の原点である家庭福祉に忙しい日を送っています。ともあれ残された人生を有意義に過ごすため我が家のオリジナル料理,猫マタギ料理を食べながら,8台の現金輸送車(孫6人,ひ孫2人)の成長を楽しみに身辺の整理をしながら悔いのない日々を送りたいと思っています。
 ばかげたことを書きましたがご笑読のほどを。