ホーム岡山畜産便り岡山畜産便り昭和25年4・5月

人工授精の問題

家畜の人工授精法の普及に際して

農学博士 釘本昌二

 仄聞するところによれば,当局は家畜の普及増殖の一重要手段として人工授精法を採用し近くこれが大々的普及奨励に乗出さんとしていると言う事である。誠に結構な次第であるが,その実施にあたって果して万全の策が考えられてあるであろうか,誠に老娑心の譏りをまぬかれないかも知れないが一応の注意を促しておきたい。
 人工授精法は1322年或るアラビアの酋長が敵方の種牡馬の陰鞘に残っている精液を採集して自己の牝馬に授精したのに始まると言われ,その後1780年イタリアのスバラザンニーが犬について成功し,1799年ハンターが人間について好成績を挙げ,続いてロシアのイワノフが1899年種々の家畜について研究し1909年にはそれが為特殊の研究所を設け1920年には既に幾多の輝かしい研究成績が発表された。
 1938年ロシアに於いては牛は総頭数の5%が人工授精法によって生産され,又一方緬羊が一繁殖期に15,000頭の牝綿羊の配合に成功したと言うことである。我が国でも新山氏が下総御料牧場に於いて既に1896年馬について試みたことはあるが,近代的研究は1912年京大教授の石川博士に始まると言ってよい。ことに過去10数年間畜産試験場に於ける牛・豚・羊・鶏等各種家畜家禽について斯法の学術的並びに実際的研究の成果は実に目覚しいものがある。今や世界各国に於ける斯法の進歩発達は驚くべきものがあるが,米国での応用は尤も実際的にしてその利用も極めて良く普及されている。就中,乳用種牛では1938年5月ニュージャージー州の102人の乳牛飼養家(乳牛1050頭)が相集まって人工授精組合を作って本事業を始めたのを最初とする。この組合構成こそが米国の人工授精事業の発表を特色つけるものである。
 さて人工授精法に対する誤った考えの第一は,この方法の発達に従って自然交配法を全然不用とする論議である。然し現在の知識・技術を以てしては前者は決して後者に及ぶほど進歩してはいない。繁殖生理に関する科学のみを考えても現在の所まだその一部しか解決していないと言って良い,即ち未知の分野が極めて多い。ある特定の家畜の不妊に対するその原因,予防,治療も100%安全確実とはいいにくい,又牡畜の利用増進に平行して健全なる精子の発生等に必要な牡畜の特別な飼養管理法もこの際一段の研究の要がある,精子の授精能力も時間,温度,距離的等に自ら限度があり,又種牡畜の減数による経済的改善と共に反面供用牡畜の疾病,死亡等による不安が拡大することも考えられねばならぬ,此の間の調節に思慮が足りないと予期しない損害を招くことがある。
 人工授精法の利点の一つとして挙げられる疾病の伝播防除は一旦其の方法を誤れば一変してその促進となる惧れがある。即ち牡畜の凡ゆる点に於ける健康と用具の消毒は絶対である。牡畜の健康の必要なことは言う迄もないが用具の消毒は中々注意を要する。この方法をあやまれば,疾病の予防は出来るとしても受胎の減退或いは不能をもたらすことは周知の通りである,用具の消毒については,その用剤・温度・等取り扱いに格段の技術と注意を要する。この点施術者は大いに留意すべきである。
 人工授精法の第二の利点にあげられるのは後裔選択繁殖の実行が容易であることである,即ち牡畜の繁殖成績が比較的壮令の時代に判かるから,その実際に得たる後裔子孫の良否によって牡畜を選択する事が可能である。これによって家畜改良の途が正確になり,又速やかになる事は言うまでもない。このことは家畜人工授精法の積極的効果の最大なるものと称すべきである。しかしこの効果を挙げるには予め次の二点の解決を用意しておかねばならぬ。即ちその一つは,当初に生まれた或る小数の後裔子孫の成績不良の場合に,その種牡畜と不良子孫を直ちに繁殖に供用しない様に処分する方法,その二は,初め試に幾頭かの牝畜に交配して得た,後裔の成績が明瞭になる迄その牡畜を依持する方法である,この方法がうまく実行されねば人工授精法の家畜改良上の効果は半減されるであろう。その一の問題の解決には各種性能の検定事業,家畜の保険共済事業等を行う団体と共に組合組織の利用が一方法である。その二の問題については,同種組合間の牡畜の相互利用,老牡畜の交換,貸借,売買の慣習の醸成が奨励されねばならぬ,必要あれば,当分輸送費等何らかの形における奨励金等の交付も一法であろう。
 人工授精法の普及するにつれ最も危惧を感ぜられる事は故意又は不注意による,血統のゴマカシ又は過誤である。若しこのこと即ち血統の正確な事がみだれたらば,人工授精法は家畜の改良上まったく逆効果をもたらすもので家畜改良の基礎を根本的に破壊するものである。これは究極する所,家畜の飼養家と人工授精術者の良心と信用による他はないけれども組織としては米国の例にならい組合を作り相互監視のもとに正確を期すべきである,いずれにしても筆者は人工授精組合(仮名)の組織を提唱したい。
 最後に問題として残るのは,人工授精法普及により繁殖に供用される牡畜の数が著しく減少することである。これは斯法の終極の効果を考慮する時は論ずるに足らない事であるが,一時的には家畜の飼養家の利益と寧ろ相反する現象が起る事は予め覚悟をし,又これに対する施策を国家的にも,地方的にも,又個人的にも練っておく必要がある,これは中々むずかしい事であるがそれだけ緊要な事で諸外国でも思い悩んでいる問題である。とにかく家畜人工授精法の組織的普及は誠に望ましいことで其の利点の利用に万全を期し,これが健全な発達を希望してやまない。