ホーム岡山畜産便り岡山畜産便り昭和25年6月

夢想愚想(1)

宰府悌

 私は以前或る謝恩会の席上で恩師より次の様な意味の事を聞いたことがある。
 即ちその1つに我々の日常生活,特に食生活を観察するとき,余りに澱粉質植物に偏重しており,これは必ず動物蛋白質食物に改善しなければならない。
 氏が欧米留学中,又戦後我が国に往来する様になった欧米人と接触する機会のある度毎に,体格,家事の煩雑さ等幾多の比較対照にその弊,不合理性等を痛感するが故に,若き世代の諸君に此等改革の先駆者たられんことをお願いすること。
 些か偏見の感ありと言えるかもしれないが,富裕な家庭の人々に,なじまれ,貧しき人達には顧みられず,たまさかのとき,医薬的な存在で辛うじて存命していたものに畜産物がある。
 牛馬等の置物像ならいざしらず,この畜産物が置物的で上流階級の愛顧物であったと言うことはお互いに,畜産に携わる者として兎に角情ない話で,斯様な始末では氏の言を実現化するに山の彼方の空遠き思いがしてならぬ。
 当時,宴のアンコールに魅惑され,さほど,気に留めなかったが幾月かの流れ去った只今,脳裡の片隅から頭をもたげ氏の面影を伴って鮮やかに浮かんでくる。
 畜産の構成要素が互いに刺戟し刺戟されつつ全体を発展さしてゆく過程の一断面を取り上げてみるとき,畜産消費が大衆の裏付けによって拡大して行かねばならぬということは肝要なことであって,その為に,何よりも食わねば生きてゆかれぬ人間であれば,先ず「口」の面より畜産の奨励を計るということは当を得たことであり,畜産を愛し畜産の行えを案ずるにおくれをとらぬ氏であるからこの言の真意も亦この辺にあったのだと思われる。
 今頃成る程と感ずく鈍感な筆者に,かつてはおそらく某氏,筑紫の国で苦笑し,迷惑しておいでのことだろう。
 大いに張切り御期待に沿わなければと思いつめている次第である。
 氏更に続け曰く
 古来我が国では「女房と畳は新しい程よい」と人々の口から吐き出されている。
 世の女人,これを聞けば大いに怒ることだろう。何れにしろ人間を生物学的に眺めるとき,その生いたちの根源は,まずまず生殖細胞即ち卵と精子である。
 処で人間の持つ染色体数は男において47個,女において48個であるが,その生殖細胞ではそれぞれ半減し,男の持つ精子の染色体数は23個のものと24個のもの,女の持つ卵はすべて24個である。
 この様に半数の染色体が47個,48個になって始めて男と女となるわけであるから,なくてならぬものが男に対する女であり,女に対する男である。
 この必要かぐべからざる女が新しい程よいという理屈は,又,我々の住生活に欠ぐべからざる畳の新しい程よいと言うのと一脈通ずるものがある様に思える。……と馬鹿げた話はされなかったが日本家屋と畳は男女の関係であり,1日24時間この上で生活する人々が大部分であろう。
 この永年愛着を感じ,なじみ深い畳の生活をベッドに改善されたいと言うことである。
 ニュートンの引力の法則を出すまでのこともあるまいが,室内の空気の動揺が夜の深まるにつれて落着いてくると塵埃が畳の上に集積することはわかり切ったことである。
 塵埃の重積した畳の上羽2重の柔らかい布団を敷き一夜を明かすにしても,亦センベイ布団においては猶更であるが1日の疲れを回復するの図はゴミ箱の中に眠を取ると五十歩百歩であり,全くかかる人々に幸あれだ。
 「幸なるかな心の貧しき者よ,天国はその人のものなり」とか,チリの中に一夜を明かすを欲する心の貧しき人ありとするならばその人の天国はチリ天国ならずや。
 人間は考える葺なりとか,大いに考えるべきである。
 食生活の改善,又寝生活の改善等,すべてが健康的な生活への出発点であり最終点でもある。そうしてこれにより少なからぬ医療費の節減がもたらされ,長生き出来るというものだ。恩師の言を拝借し書き留めたこのこと等今時の御時勢にはピンボケだ,夢想だとして耳を傾けてくれる人はいないかもしれない。
 だが私には氏よりの尊い別離の言葉であり,四六時中片時も離れぬ味わいある言葉であり現想以外の何物でもない。