ホーム岡山畜産便り岡山畜産便り昭和25年7月

理想的農家の設計

畜産と生活改善(2)

覆面子

 今農村では大変な不景気である何処へいっても金づまりの声を聞く,これを如何に打開するかに大きな関心がかかっている。しかし少し前迄は農村は大変な景気であった。何をつくっても売れる,しかもとても高価で飛ぶ様に売れた,農産物は勿論のことで米が国内を矢鱈にあちこち横に流されたことは記憶に新しいことであり,其他のあらゆる物資も取締陣のやっきの強化活動にも拘わらず羽が生えて飛んだもので,利に敏な人々はそのため相当な財をなしたものである,畜産方面においても同様で牛等右から左へ一寸動かした丈で何千何万ともうけた人もある。
 忘れもしないその当時「嫁に行くなら農家へ」とその当時農家はあこがれの的であった,何とかしてお百姓とのつながりを持ちたい気持で一杯であった,事実主食に困る時代がつづき「溺れるものは藁をもつかむ」という心理は都会の人殊に給料生活者のいつわらない気持であったと思う。
 私も某県で戦災で一夜の間に家財道具,衣料類全部を烏有に帰したもので,1人当り300円位で簡単に片づけられたものの1人である。他国で何人のつながりを持たない私は,「武士は喰わねど高楊子」という豪そうな考え方で2年余がんばったがその当時の食生活は考えてもぞっとする。今日,何かと体の調子が悪いが,その当時の生活がたたっているものと思っている。
 閑話休題,現在の農村はまるで反対で農村は何処へ行っても金づまりでやり切れないというのが一般である。農家は長い間の重圧で文化的に恵まれていなかった,多かれ少なかれもうけた金は借金の支払に先ず廻され残りは家の改築,衣類購入等に消費されて仕舞い経営改善のために使うことが少なく,貯蓄にも廻さなかったというのが今日の不景気を来しているのではないだろうか。
 今全国的に換金作物熱が昂まっている,金もうけをしたいのはお互人間だれでも同じであるが,農業ほど金もうけの下手なものはない,うっかりしてこれにかかると元も子もなくしないとも限らない,地の利も考えなくてはなるまいし,人の和も必要であろう,1人で何とかしてやろうという考え方はうまく行かないのではないか。
 よいからといって無暗矢鱈に手をつけると今新聞を賑わしている犬薄荷のようなことにならぬとも限らない。
 お百姓は地道のものと昔から通り言葉である,地道であるから手堅いのである,終戦後2,3年のあのどさくさ時代はこの地道のお百姓に浮づいた気持を持たすようになったようである,事実今でもその気持が多分にあるのではないであろうか何分にも紙幣乱造でその価格も100分の1となり200分の1という際であったのでもうけたようであるが,実際はそんなにもうけた人は少なかったのであるが,一つの催眠術にかかっていたのではないだろうか,今となってはこの事実も一場の夢でしかない,この夢も日本の現状からすると悪い夢であった。
 農業経営の要素はだれでも土地,資本,労力が根幹であることは十二分にしりつつも,人がうけたことお聞くとすぐそれをやりたがるのはお互いの心理である,もうけるにはもうける丈の経営方式があったのであって,自分の「力」を充分に考えずに始めると前に言ったと思うが失敗するものである。
 戦争中は軍部の強圧で勝たんがため不自由をしのんで生産に奮闘したので,農産物は勿論畜産物もある程度確保出来たものであるが,戦争の様相苛烈になり,敗戦の兆濃くなるにつれて次第に減産の一途をたどり,終戦と同時にあの空前の産業界の波乱を来した。
 畜産界もお多聞にもれず牛,馬,羊,豚等いづれも轡をならべて減少した。この原因は色々言われるが,先ず第一に精神的の動揺もあるし,経営との完全なつながりがなかったことにもよるし,戦争のための重圧というものの反動でもあるが,主穀農業の立場からの畜産の利用であって,農業経営全体としての均衡を図ることなく,只々無計画に家畜の導入のみを図って飼料其他の裏付けが考えられなかったことにも大なる原因がある。(未完)