ホーム岡山畜産便り岡山畜産便り昭和25年7月

随想

夢想愚想(2)

宰府 悌

 表題に記す如く,あくまで,夢想愚想のたわごとのさすらいを続けたい。我が国の農業に畜産を取り入れてゆかなければ,古来よりの水田作を主とした経営では、どうにもならないと,広く認識され,叫ばれて,昭和2年農林省において有畜農業という,奨励用語の如きものが造られ,次いで昭和6年より,この事業が奨励された由である。
 爾来20年,世間では二昔前と同様一にも二にも有畜農業とやかましく騒ぎたてている。
 5分の1世紀の時の流れは有畜農業の或る程度の成果を収めたわけであるが,何分にも,我が国の立地条件,過去の農業政策,民族性,或いわ畜産物と水産物との競合等,数多くの畜産を育くむべき条件の不都合さに阻止されその歩みは遅々たるものであった。
 加うるに5年前の世界大戦の刺激は畜産をして昭和の初めに立ち帰らしめた観がしないでもない。
 農業と言うものが自然を相手のスローモーション的な人間の行為であれば畜産とて御多分に漏れず,早急な成果を求めることは誤れる願いである。
 然し乍ら大きな経済界の変動の度ごとに一歩前進,そして一歩後退の佇立状態であってよいものであろうか。
 畜産人の猛反対,今にしてなされねば,有畜農業は未来永劫に花開かざる悲惨な神の使者となり,農業経営にマイナスすること甚だしきものがあると思われる。
 20年前に逆行せる今日の有蓄農業何処へ行く。
 話は変転,我が国にノーベル受賞者を出した原子物理学の世界を眺めるに,人類の平和か将又人類の滅亡かと二者択一に迷わなくてよいものを迷わしめる,誠に生命を魅惑するにミゼラブルな原子爆弾,水素爆弾の出現はさておき,5年前地球上に平和をもたらしめ,今日人類の生活文化に寄与するに偉大なる原子力の研究は我々に驚異と光明を与えるものである。
 この物理界と畜産界―比較するに愚なる対称の構成ではあるが,―のギャップをみせつけられるとき,何とかならぬものかなと,歯ぎしりする次第,物理界の?分の一でもあやかりたきものぞ。
 今後もし,畜産のアブノーマルな膨張発展の結果この地球上に人類と家畜家禽の一大闘争が繰り広げられたとしたならば,吾人もって冥すべきではなかろうか,呵呵。

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 とざされた畜舎から山野,田園に活眼を転じて,吾人同様に自然児たる彼等に,其処に繁茂する青草と,其処に横たわる散策路を与え,自然の愛撫にまかすことこそ,家畜飼養管理の原則ではあるまいか。
 兎角,気儘な人の意に従わしめようとする飼養管理が従来行なわれがちであったとは,これ亦愚想であろうか。
 5月初旬,岡山種畜場で開催された乳牛共連会における審査報告の中に=今なお,我々の生々しく感じているところであるが=概評するに体型資質品位共に著しく改良進歩の実績が認められるが,しかし更に細部に亘って検討するとき一般に体積に乏しい弊がある。
 この点については健康を象徴し能力発揮を維持する「ガッチリ」した体格を求めるべく,今後一層育成技術を研究し,発育時代の飼養管理就中運動方法及び粗飼料の利用を大いに活用すべきであるという一文がある。
 乳牛共進会において取り上げられた審査長のこの飼養管理における要望は単に乳牛に限るべきものでなく,すべての家畜に即刻実行すべきものではあるまいか。
 とざされし畜舎より,田園山野に活眼を転ずべしと愚想する筆者の意もいささか,このあたりにあるつもりである。
 聞いてしまえばなんだそんな事かと案外簡単に片付け,聞き流してしまう人の多いのが現世の常であるように思えてならないが,家畜が人間の奴隷でなく,我々の生きる為の相棒であるということに思いをいたすならば彼等の天性を最高度に発揮せしめる不可欠の条件であるこの飼養管理に忠実でなくてはならない。
 喜々として自然の広野に生を享受せしめ,最高能力を発揮せしめることが亦,天寿を全うし得ずして屠場に引かれて行く,みじめなる彼等に対する我々の生前のつぐないでもあろう。
 彼等亡霊の再び,さ迷いきたらざらんことを。