ホーム岡山畜産便り岡山畜産便り昭和25年8月

和牛特集

阿哲郡産牛の歴史

土屋源市

一.地勢と産牛

 昔の和牛は放牧と重大な関係があったので,良牛の産地は,いずれも地勢,風土の好適した処で発達したようである。阿哲牛即ち千屋牛の産地である阿哲郡は,北西に中国山脈を負い東南に展開した土地であって7万余町歩の山林を有し,これ等の山林は,所有の如何を問わず放牧のために使用することが出来る恵まれたる慣行があり,草の出来もよく,水も清く豊かで,実に天の与えた好牧場である。交通,運輸の便がなく林産物などの無価値な時代であったから,運賃の掛らぬ有利な産業として,畜産が発達したものと思う。
 かくして,古来此地方では多数の牛を飼養するに至ったのである。

二.竹の谷牛の出現

 千屋牛の改良は記録に徴すべきものはないが,地方民が,良牛を造り出すために,苦心したことは,各地にいろいろの蔓牛があったことによって窺われるのであって,その内最も有名なものは竹の谷蔓である。此蔓牛は今から約170余年前,郡内新郷村に難波元助(竹の谷一軒屋)と言う富農があって,頗る産牛に熱心で,地方民に多数の牛を預托し,又自家には常に優良な雌牛を多数飼養して蕃殖したのであるが,その子千代平の時代(天保初年頃)たまたま立派な雌牛が生れ,体高4尺2寸もあり,しかも体型が非常に優美であった。その妹牛もこれに劣らぬ立派なもので共に蕃殖に用いて続々と,良牛を産出するに至った。この系統の牛は,体格が大きく,乳がよく出て,毎年仔を産むと言うので評判が良かった,島根県仁多郡鳥上村ト蔵家の如き,その当時3才雌牛を銀1升(金子100両)で取引したと言う位である,その蕃殖の方法は,自家に生れた雄牛を残して母や姉などの近親に種付したのであって,今日の種類固定の原理一致したやり方であったことは,特記すべきである。
 此蔓牛は,本県内は素より,鳥取,島根,広島等広く分蔓として蕃殖したことは,羽部博士の蔓牛調査によって,知ることが出来る。

三.太田辰五郎の業績

 難波千代平の時代に,千屋村に太田辰五郎と言う,豪農があって,殖産興業の志篤く,地方に好適する,産業として,畜産には特に意を用い,細農に対して,多数の畜牛を預托し,又自ら全国各地より良牛を求めて,改良に努めたのであるが,前記竹の谷の,難波千代平より購入した雌牛から生れた雄牛は,体格偉大(4尺6寸)なもので赤毛であったから,大赤号と称えて広く種付したところ,いずれも黒毛の良牛を産し,千屋牛の改良に多大の効果を挙げたのである。
 また全国的に名高い,千屋の牛市も,天保5年半夏に同氏が創設したものである。このような功績に対して,明治33年第1回中国5県連合畜産共進会において,時の農商務大臣より追賞され,又昭和2年,県下の有志により千屋市場に立派な,頌徳碑を建ててその功績を表彰したのである。

四.産牛馬組合(後の畜産組合)の施設

 本郡の畜産は前述の,竹の谷蔓牛の創成,太田辰五郎の業績等,輝かしい伝統によって,その名声を発揮するために郡民は絶えず努力して来たが長い間見るべき施策もなく経過したのであった。畜牛馬組合法の施行に伴い,明治40年田原藤一郎等の発起により,阿哲郡畜牛馬組合を設立して,畜籍の制定,種畜の改良,家畜市場の整備統合等を行い殊に,組合有種雄牛制度を確立して,本郡産牛の面目を新たにし,累次の中国6県連合共進会において最高賞を穫る等いよいよ本郡産牛の声価を発揚するに至ったのである。

五.阿哲畜産株式会社の寄与

 なお資本的な協力によって,急速に,発展を期する必要を痛感する郡内有志は,相謀って,大正9年,資本金200,000円を以て,阿哲畜産株式会社を設立し,畜牛の預托,牧場の経営,優良種雄牛育成等の事業を行い畜産組合と相携えて,畜産の改良発達に努め,全国的な育成地として,名声を博したのも,同会社の業績である。

六.名牛第13花山号

 本牛は,大正9年8月郡内新郷村に生れ,両親共に,竹の谷系にして大正10年阿哲畜産株式会社が購買して育成され,大正11年鳥取県における,第9回中国6県連合畜産共進会で1等賞を得,国有に買上げられて,郡内新郷村矢神村,最後に千屋種畜場で種付に供用されたものである。本牛は稀れに見る,優良牛で蕃殖成績極めて佳良,精力また絶倫にして,昭和7年に至るまで,満10ヶ年,その仔牛生産も700頭に及び,遺伝力強く,当時本牛の仔牛生産は,一般牛の3倍余の価格で取引された実情から見ても,実に驚嘆すべきものである。岡山県の種雄牛にして,本牛の影響を受けざるものはないと言うも,過言でなく,広く我国の和牛改良に資したる効果は洵に偉大である。現在新見町にある名牛第13花山号の碑はその功労を偲ぶ記念として県下の有志が建立したものである。

七.竹の谷蔓牛組合の発足

 古き伝統に新たな生命を与えんとして,竹の谷系統牛を専ら蕃殖する新郷村において,昭和16年,竹の谷系統牛協会を設立して,系統牛の保存につとめつつあったが,更に千屋村を加えて,昭和24年3月斯界の権威羽部博士の指導と岡山県千屋種畜場の協力を得て,両村民異常な熱意を以て,竹の谷蔓牛組合を設立して,基礎牛の選定,優良仔牛の保留等着々と,その態勢を整えつつあるから,その業績は将来刮目すべきものがあると思う。

八.結語

 以上は口碑または,記録等によって,阿哲産牛について,その大要を叙べたのであるが現在本郡には1万余頭の畜牛を飼育し,1ヶ年約4千頭の生産を挙げ,これ等のものは,すべて千屋牛の名によって取引されている。
 本郡産牛の改良には,大正10年千屋村に設置された,岡山県千屋種畜場の指導が与って力あったことを附記する,また現在畜産改良の機関として阿哲郡畜産農業協同組合連合会が専ら其衝にあたっている。

(筆者は元代議士・現在阿哲畜産会社社長)