ホーム岡山畜産便り岡山畜産便り昭和25年8月

和牛特集

竹の谷蔓牛について

梶並技師

 今を去る約180年前安永(西歴1772)の頃阿哲郡新郷村大字釜字竹の谷に浪花元助なる者があった。隣村千屋村の太田辰五郎と相並んで地方屈指の富を有し信望厚く自ら畜牛を買い集めて改良の範を垂れ時には私財を投じて良牛を飼育せしめる等畜牛の改良に業績見るべき者があったが文化6年業半ばにして病没した。その長男千代平は良く父の志を継ぎ畜産に熱心壮年にして牛馬商を営み良牛を求めて自ら飼育する傍ら居村農家に多数預託飼養せしめ又貧農に対しては無償貸付をしてその家計を助ける等畜牛改良に志すと共に博愛の念が厚かった。天保初年(西歴1830)偶々一良雌牛を得たがこの雌牛が雌仔牛を分娩したるに骨格優美にして4才に於て4尺2寸余に及びその妹牛も亦優良にして4尺1寸余に達し共に蕃殖に用いた結果何れも良牛を産出した。亦生産した雌仔牛を4才まで飼育し母牛に交配したが良牛相踵いで産出し遂に竹の谷牛の名を成すに至ったのである。
 従って遠近を問わず競い来って此の地方より牛を求める者続出し声価は盆々揚ったのである。当時出雲国仁多郡馬上村某へ売却した雌牛(紅赤色)の如きは実に金子百両であったというに微しても如何に名牛を産出したかを窺うことが出来る。
 千代平のあとを元助(上代目明治19年没)家業を継ぎ更に栄右衛門(明治25年没)が祖父の業を承継して益々畜牛の改良を行い牛舎の改築をなして蕃殖に努め或は自己の山林を伐切して放牧の設備を整え飼養管理の改善を図ると共に附近に同様系統の牛の飼育を奬め優良仔牛の散逸を防ぐ等実に代を重ね永い歳月の間の不撓の努力によって造成されたものである。

現   状

 前述の如く良牛たるの声高きに及んで此の蔓牛は各地に購い取られて種々の分れ蔓を作り一方蔓牛改良の当事者の熱意も漸く下り亦竹の谷の名を利用し金銭収入の一手段となす者等生じ名実共に充実していた竹の谷蔓牛もその内容は極めて薄弱なものとなった。
 昭和15,6年頃地元新郷村の有志相集い竹の谷系統牛協会を組織し蔓牛の復興を図ったが戦争其他の関係上成果を見なかった終戦後全国和牛登録協会誕生するや和牛の登録と蔓牛造成の関連性を強調され爾来日本最古の竹の谷蔓牛の復興については地元は勿論大きな面からも検討を加えられ昨昭和24年4月羽部先生臨席指導の下に地元千屋新郷の熱心家の発起により阿哲郡千屋村に於て竹の谷蔓牛改良組合の創立を見然して

(一)竹の谷蔓牛の特色として助長すべき点(1)品位に富み体積豊にして体の締り宜しき事(2)四肢良く締り蹄強固なる事(3)泌乳器宜しき事(4)角の形質及び皮膚被毛の状態宜しき事。
(二)竹の谷蔓牛の改良すべき点として(1)肩及び肩後の凹陷の状態(2)背線の状態(登背と腰)

 以上を本蔓牛改良目標として此の方針に則り現在までに正雌牛31頭副雌牛119頭の認定を了し正雌牛として岡山県千屋種畜場繋養の第4大本号指定され,基礎雌牛に交配の上蔓牛の造成に努めつつあり,特に優良仔牛の保留及び飼育管理の改善向上に留意し去る4月飼養管理共進会を開催し基礎雌牛100余頭の出場を見,盛会裡に終了した,尚5月1日より全国和牛登録協会蔓牛規程に則り組合運営を計りつつある。

(筆者は千屋種畜場長)