ホーム岡山畜産便り岡山畜産便り昭和25年8月

和牛特集

岡山の牛肉

岡 長平

 日本人が牛肉を喰わなくなったのは,仏教渡来の影響である事は,今更説明の要もあるまい。殊に,徳川幕府の御治世となると,「農は国の大本也」をモットーとした政治を行ったから,その農業に重要な役割を務める牛を,殺して喰うなどは,以ての外の不量見なりとして,厳罰に処せられはしなかったが,大きな社会問題だったのである。
 そうなると,余計に喰いたくなるのが人情であろう。栄養補給に効果が著しいので,病人や病後の者が牛肉を喰うのを,世間が余り咎めないのに乗じ,『養生喰い』と称して,達者な連中も其の恩恵に浴する方法が泰平と倶に発生して来た。その本場が,江州の彦根と,作州の津山だったのである。津山の『養生喰い』発達は,箕作一派の蘭学者が,長崎直伝を紹介し奨励した為だと,説いている学者があったが,ほんとに御戯談だそうだ。元来,津山の牛市は,西国屈指のものとして聞こえておった。また津山は天下二大市と呼ばれた伯耆大山の丑市に至る,道中宿駅なのでもあった。従って,博労達の往来集散が甚だ繁かったであろう事は,想像に難くないから,博労達の好んで食する『養生喰い』が此の地に盛行するに,何不思議があろう……,と言う結論になる。それに津山と言う土地柄や人柄が,昔は,厳しい倫理道徳に虜れたり,喧しい理論に縛られたり,する事を余り好まない習性があって,「駈落者は津山へ」という諺が今に遺ってるぐらい,他国者の来るのを無条件で大歓迎したものだ。『前よりは弱って帰る,養生喰い』と言う川柳がある位だから,物数寄や,自称通人や,道楽者などにとっては,津山は,必ず一度は行かねばならない,メツカの設備が,不完全ながらも一応整っていたものと想われる。岡山へ,ボードウイン(医学校教師,明治元年)が来た時ベレー(同上,明治12年)の追想記を読んでも,牛肉を手に入れるに苦しんだ記録も文献も更に見当らない。明治3年に電信技師の英人を後楽園で知事が招待した時も,焼肉や肉汁を堂々と出しておるのだ。
 「神戸肉は名物だったが,あれは皆千屋牛だ」という話をよく耳にするが,千屋牛の行きだしたのは後の事で,先ず最初に需要を充たしたのは津山の『養生喰い』なのである。それが縁となって,岡山県から引続き送られることとなった。牛肉や生牛を神戸に送った記録は沢山にある維新前後に於ける,横浜や東京での,牛肉入手の苦心談が雑誌や本に載ってるが,神戸に関して其の声を聞かないのは,津山の『養生喰い』で大いに救われたものと言ってよかろう。
 と言って,御維新以来,岡山辺の各家庭で平気で牛肉に箸をつけたかと言うと,決して爾うではない。私達子供の時分まで,お位牌の居られる主屋で食う事はまかりならなかった。岡山で,スキ焼礼讃,滋養食絶対必要,を旺んに唱え,大いに奨励した者は,山陽新報や商法講習所へ来た若い慶応義塾の出身者だったと言われている。それは,明治12,3年頃だ。論説に,演舌に,その啓豪運動は,目覚しくも華々しいものがある。一方,師範学校長に赴任して来た,アメリカ新帰朝の,若冠25歳の能勢栄先生が,盛んに肉食を唱道し,遂には小幡金平氏などを唆かして,斃牛社という屠牛場を設立せしめた(明治12年)。
 岡山最初の牛肉店は,東中島の開化楼で,もと『備初』(備中屋初五郎)と言う撃剣道具の製造販売店が,時節の変化に発心して,転業したと言うのだから,エライ尖端だ。どうも明治の7,8年頃らしい。次が山崎町の『鹿林』で,これも酒井伝吉と言う士族の商売人である。続いて,京橋の東詰の北に鳥帽子楼という3階建の肉屋が出来たが,これも野面という立派な御侍だ。それから西田町の「黒崎亭」野殿町の「招客亭」,中之町の「明富士」,山崎町の「一ツ星」,西中山下の「可声」,等々遂に,明治14年10月11日発行「稚児新聞」によるには,牛肉屋が52軒になっている。屠牛所も,栄養社(弓之町),愛養社(南方),屠牛社(北方)等が岡山に設立された。「岡山県布達,用第101号明治10年10月10日」に,

 近頃牛肉商ノ者,斃牛ノ肉ヲ取交ゼ販売致ス者,間々有之哉ニ相聞コヘ,以テノ外ノ事ニ候條,厳重可遂吟味致候ヘトモ,方今,虎列拉病流行ノ際ニ候ヘバ,人々篤ト取調出所,判然セザル肉ヲ買求メザル様可相心得,此旨布達候事。

 よく在るやつだが,反面,牛肉熱が余程高まって来た事が窺がわれるではないか。
 この時分明治14,15年頃牛肉の味噌漬,佃煮,朧煮(缶詰)が,岡山名物として登場し,迚も好評嘖々だった旨を新聞紙が伝えている。
いよいよ牛肉党が増大して来た。17年12月17日山陽新報には,「店売行商「シシヤ,シシ」と呼んで,肩に木箱をのせて売りに来たを含めて牛肉屋204軒,売捌ヶ高1ヶ月300貫,日に12頭」になって来ている。明治19年8月10日の山陽新報「寄書」欄に,「肉屋の改革を望む」という題で
 生両輩と共に或る肉屋に到る。即刻,テーブルに向うて椅子により,三人対座対酌,肉三人前を食い終って足らず。又,二人前を求む。且つ酒7本を呑み,玉子21を食うて,代価80銭を支払う。生等の微醉に乗じて暴利を貧る。真に憎む可き行為と言う可し。
 商売繁昌から商売人の横暴が始まるのは,何時の世も同じ事だ。20年の秋には,牛肉上等100目3銭3厘を5銭5厘に,中等2銭8厘を4銭5厘に,3等2銭2厘を3銭5厘に値上げを発表したので,与論が喧しくなり,非難囂々,日々の新聞が筆を揃えて攻撃を始めだした山陽新報は社説「食肉論」を掲げ20年11月14日「牛肉値上げの不当を論じ,国民衛生の上からも由々しき大暴挙と言わねばならない」と筆誅を加え,最後に,「幸いに岡山は山海の佳肴に恵まるを以て,少時く食肉を廃し,彼等不逞の徒に,大懲罰を加う可し」と結んでいる。
明治33年版『岡山有名三幅対番付』に,

牛肉屋

 常盤町,中島 林治
 西中山下,相沢巳之吉
 西中島,鳥帽子楼

牛鶏料理屋

  上之町,和 久七
  可真町,肉 久
  川崎町,江陽亭

 とある。これに就いて高見章夫岡山県農会副会長の昔話に
「………明治26,7年頃に,紅葉亭と改名してスキ焼を始めたが,一客に1室を占領さすのと,評判娘が居ったので,学生連がよく押掛けた。餅をワザと盗ませたが,これも人気の種だった。この評判娘が,岡山中学の体操教師と恋仲に陥ちて,エライ噂になったものじゃ。この江陽亭に刺激されて,上之町の和久七もスキ焼に転業したが,ここには,チイさんと言う看板娘が居って,エラク流行ったもんじゃ。山崎町の「鹿林」には本統に鹿の肉を喰したが,鹿だけでなく,猪や猿の肉も喰わした。ところが,此の店の特徴は味噌煮に限ってたことじゃ……」
 この時代を絶頂として,スキ焼は下り坂となり,洋食興隆がとって替ることとなって来た。

(筆者は岡山の郷土史家)