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岡山牛

千屋牛

 千屋牛と称するのは岡山県阿哲郡千屋村を中心として阿哲郡内に産する和牛で従来1万3千余等を飼育し1ヶ年4千頭の仔牛を生産し古来より名声を博しているが他の産地に見られぬ特色を持っている第1は素質が優秀足短く体幅が豊で非常に飼いよく老齢になっても持ち崩れせず第2骨緊りがよく柔順で持久力に富み使役して申分なく第3は最後の目的たる肉に於て繊維が細く脂肪の交りよく歩留りが多くて肉市場の取引が有利な事で従来の我が国の農家の飼育に最も適した牛である。
 此の如き優れた牛がどうして出来たかこれは自然と人力の合作に依るものである自然の条件としては阿哲郡は気候風土が適している事で俗に水が良いからであって,郡内山林面積7万1千町歩の殆んどが牧場として使用され耕地や採草地は作主の負担で障壁を設けている有様で道路の如きも放牧地の延長で路上を悠々逍遙して旅人を驚かしている放牧は八十八夜より土用の入二百十日より降雪迄の約半年の長きに渉り此の放牧によって遺憾なく鍛錬されるのである。
 又冬季間は人畜共同生活とも言うべく居宅と牛舎を兼ねたる内廏にもどされ台所を殆んど同じうし炉の温りを受けつつ慈愛に満ちた家族同様の待遇により酷寒を凌ぐのであって優れた自然と伝統的人の慈愛により人畜親和の管理を受けている人力としては古来幾多の先覚者により育て上げられたのであるが特筆すべき太田辰五郎,田原藤一郎,荻野繁太郎土屋源市ら諸氏の事績である。
 太田辰五郎氏は天保初年に於て千屋地方が産牛に最適の土地柄であることを認めて之が改良を企図し代償を惜まず遠近より優良牛を求めて盛に改良を行う中にも郡内新郷村に産したる竹の谷牛は最も優秀にして今尚血族連綿竹の谷蔓として斯界に珍重される。又天保5年畜牛の取引をなす為に巨費を投じ牛市場を創設して顧客を吸収し販売の利便等を開く等尽力する処多く,ために声価頓にあがり其需要日に加り非常なる盛況を呈するに至った。第1回中国5県畜産共進会に追賞せられ又後人其の遺徳を偲び有志により千屋市場の傍に魏然たる豊碑を建立して其の功績を表彰されている。
 田原藤一郎氏は明治40年産牛馬組合創立以来30年間組合長となり一貫せる方針の下に凡ゆる施設を行い畜産業の改良発達に努められ時の技術員として土屋源市氏奉仕し田原藤一郎氏退職されるや其の後を受けて組合長となり時代に順応して極力改良を施し亦大正9年郡内営業者によりて資金を得て畜産会社を設立荻野繁太郎氏を社長とし土屋源市氏専務となり畜牛の預託牧場の経営,飼料の販売等各種の事業を行った。
 就中特筆すべき事業は優秀種雄牛の育成であって郡内に生産する優良雄は悉く会社の手によって買収其の最優良なるものを畜産組合に提供して営利にとらわれず改良に尽し50余頭の種雄牛全部を組合有となさしめ生産の改良を図り又一面販売機関整備に力を致し従来個人経営に属する各市場を買収し或は新に市場を設くる等郡内4ヶ所の定期市場と1ヶ所の仔牛糶売市場を設けて販売の統制と取引の大改善を行い以って生産と販売の両翼を保ち多大の効果を奏したる為に年次良牛を産し名牛続出して顕著なる成績を示すに至った。和牛を語るもの花山号を知らざるはなしとまでに喧伝され人に優る碑を建立し讃えた第13花山号などの名牛続出種畜として全国各府県に盛に使用されるに至った。
 千屋牛は水田の耕作牛としては最も適したもので我が国の農家の飼養には最も適当した牛である。敗戦後の日本農業再建上世評もあるが使役はたやすく肉は美味で粗飼に堪え乳量は乳牛に劣るけれども飼養者が利用するならば余乳をもって1人の乳幼児の哺乳は充分であるから将来日本役牛として農家の一役をかい益々需要は多くなると思う。