ホーム岡山畜産便り岡山畜産便り昭和25年8月

岡山牛

作州加茂牛の記

木元 衛

 作州の加茂とは苫田郡の東北部鳥取県に接し因美線に沿うた元の加茂,東加茂上加茂阿波村の五郷の総称で旧藩時代は但馬,生野,代官恩田新八郎の支配所で東北條賀茂と称せられて居りました関係上,江戸より京都の政令により畜産行政が行われて居た事が散見されます当時までは耕地人口戸数共今日よりは少なく農業経営は全くの純農で水田を主とした関係上水田1町以上が普通で1戸数町に及んだものも稀ならず其肥料は全然廏肥であったから自然牛の2,3頭の飼育が普通で大農は10余頭の牛馬を飼育し馬は駄馬として運搬を主としたものの様です。貧農は牛の購入が困難な為富農より預り牛をして居りまして富農は多くの預け牛を持ち近世に於ては山本孫四郎氏の如きは数百頭に及び遠く鳥取県伯耆方面までも貸し付け其出入は恰も伯労の様な繁昌した例も有ります。
 牛市は昔より存在した模様で有りますが天保4年に官許を得て加茂町大字中原に開設し繁昌した旧地が有ります。続いて嘉永年間大字宇野字藤屋に宇佐美某が牛市を開き此頃からして加茂牛の旧記が出て居ります優良牛の事を『よ牛』として記して居ります。此宇野の牛市は毎年半夏に開設され期日も1週間に及び其の繁昌は一宮市に続いたもので一寒村に於ける偉観で有りまして明治30年頃まで続いた様です。農家は眼前で優良牛の高価に取引される状を見て産牛改良に資したる事少なからざるものがあったと思います。斯様にして西の奥津牛に対し東の加茂牛の称が起こったと思います。元東苫田郡の産牛は加茂五郷と西の奥津上斎原羽出,富泉,久田の奥津谷が出産の地であって他は元の東南,西南條郡に属し雄牛の飼育地帯でありました。
 さて加茂の地勢は奥津地方と異り高原が少なく山形急峻で森林が多く牧野が狭小なため古来より牛の放牧も朝放牧し夕には収廏するのが自然的で有るので奥津牛に比し野育ちが無いから自然飼育管理が行届き明治中葉以後に於ける牛の改良方策を早く取入れ今日の畜産界の発達に伴い易かった点が今日の一種の加茂牛の特性を認められるに至ったと存じます。牛の体型資質などは旧記には詳しくありませんけれ共一般中国地方のものと同様で前躯が発達し後躯が劣って居た模様です。背線も不整で落首,二の腰斜尻曲飛で毛色は明治の中葉まで褐毛すだれ白班幣ふりが出て居て劣性遺伝の為角なども藪くぐりが生じて居た様でありますが性質は皆温良であったと書いてあります一般農家も猛牛は嫌って早く売払い『わる牛』の名の下に買うものがなかったと『よ牛わる牛』の記にあります。
 明治29年日清戦争後畜牛熱が高まり大いに優良牛の保留が流行し明治33年産牛馬組合法の発布されるや今の苫田畜産組合の母体が産れ同35年一宮村に於て中国6県畜産共進会が開催され地方産牛の一大進歩を来たし之れより種畜の改良と優良牛の保留の励行に努め今日の基礎が出来たものと存じます。昔より真庭郡阿哲郡因幡八頭郡伯耆郡地方とは牛の交流が有りましたけれ共「よ牛」の買入をした丈けであったのです。然らば加茂牛の特性は,

一.温和で資質体型が略ぼ均等である。
二.生育が早く適当な放牧の為肢勢蹄質がよい。
三.毛色体型資質共時代に沿い粒揃いのものが多い。
四.放牧方法が半放牧のため牛がいたんでいない。
五.蔓牛にも構屋蔓・福田蔓・坂本蔓・藤木蔓・などの優良な系統がある。
六.代々の牛馬商が営利気分を離れて優良牛の移入保留に努力している。

 体型資質などよりして真庭郡阿哲郡産とはよく似て居り川上郡後月郡のものとは顔品体型に幾分の差が有る様です。今日の過程に於いて故人の宇佐美伝右衛門,山本孫四郎,牧孝太郎,内田貢太郎,平井四平,平井文治,宗平松太郎,小村虎治郎,諸氏の畜産界に努められた功績は誠に大なるものが有り今日加茂牛の名声を保ち得たのも此先輩諸士に負う処が大きいので有ります茲に紙上を借りまして先進諸士に感謝の意を表し加茂牛の記を終ります。

(筆者は獣医師,元加茂町長)