ホーム岡山畜産便り岡山畜産便り昭和25年8月

岡山牛

奥津牛

山本友三郎

 奥津牛とは作北奥津温泉を中心とした奥津村一帯の産牛の総称であって,昔から備中の千屋,高山,作州の美甘,新庄,加茂牛などと肩を並べて有名である。いつの時代から名が出たかは詳かでないが,古老の言によれば何でも明治初年のころからと聞く。夏の土用の丑(牛)の日に諸方の人が避暑かたがた入湯に集るので,この機会を利用して牛を集めだしたのが発端となり,遂に市が開けて年々賑やかになったものである。それから相当長い歳月を経て明治34,5年の頃奥津の温泉部落に牧野定治郎(現代牧野留太郎氏の先代)という大ばくろうがあって,地方での名望家でしかも沢山の牛を所有して居った関係もありこの人が率先田上りの半夏に半夏市と称する2才仔牛市を開き,当時氏の生産に係る仔牛を初め全奥津の産牛を備前方面の人に売り出した処がその成績が非常に良くて備前の人々に喜ばれ,奥津牛は良質の牛だという折紙が付けられた。又鳥取県8頭,気高,東伯の各郡をはじめ,兵庫県宍粟郡などへ鞍下牛など主として2才雄仔牛を移出した。又明治40年のころには千屋,美甘,新庄方面の商人がそれらの地方の牛を奥津の市へ連れて来て売り払い,更らに奥津牛を買って帰るというようなこともあり,その何れの地方へ往った牛も意外に立派になり,特にからだが強健で性質が温順で人を角突くような牛は絶対にないというのが奥津牛の誇りで名声はいよいよ高まり,毎年7月2日から7日まで6日間開設する半夏市には牧野留太郎氏は献身的の努力をし,一面奥津牛の改良にも直接間接に力を注いだために次第に発展して毎回の市に300頭から500頭位の出場牛を見るに至り,購買客も備前,鳥取県,兵庫県などから多数集まって,湯の町も賑わったものだ。
 奥津牛はこうして其の真価を一般に知られ有名にはなったが,さて当時の奥津牛はどんな牛であったかというに,体尺雄は4尺から4尺1寸位,雌は3尺8,9寸で,角地が黒に水青で,体幅の広い,肢の頑丈なしかも強健,温順で,物喰いが良いという大きな沢山の長所,美点を持って居ったが,今日の目から見れば,稍々毛が黒過ぎ,少し尻の下った且つ幾分品位に乏しいという欠点もあったので,郡村の当局はこれではいけないと改良に手をつけ明治37,8年のころ県庁の橋本正技師の斡旋で阿哲産の秋津号という種雄牛を入れたがこの牛は体型,資質頗る優秀なものでこの系統が第24曙号というような名種雄牛を出すなど奥津牛の改良に役立った功労牛でもあった。
 爾来大正を経て昭和に至る3,40年の間大なる発達も見ず,却って他に較べて頽勢を示し,往年の牛の奥津の俤が薄らいだような感が無かったでもない。これは悪る口の様であるが,奥津の人が奥津牛という名牛の産地たるの名に酔ってしかも天恵の上に一時眠ったからだという人もあった。けれどもついに時は眠りを醒ました。最近奥津川西部落の難波高義氏,長藤の友保通信氏等を初め近頃香北村越畑から移住した熱心家,尾路の清水一郎氏などの壮年層が中心となって非常に力を入れて居られるので,メキメキと良くなり,良牛も殖えるし飼育管理も著しい向上を示して来た。これこそ畜産に適した気候風土という立地的条件の上に立ってのこの努力はまさに鬼に金棒で,これでこそ奥津牛の名声挽回は確実であろうことを信じ且つ喜ぶものである。
 それはさておき,奥津は良牛の産地に違いはない,事実良い牛が出来る。奥津牛の放牧場の一部は泉山の東麓附近にあるが,この牧場へは奥津の外に香北村岩屋,越畑地方の牛が同牧され春夏の若草を満喫し,6,7月頃には何れ劣らず良く肥えて居るが,さあ秋山になるとどうしたものか,牛の発育その他の良さが奥津の牛は断然ひいでて他の追随を許さないものがある。
 以上の事実から見ても奥津は昔から良い牛が出来る所に違いはない,なぜ奥津に良牛が出来るのか,それは風土気候が良牛の生産に適して居るからだという,しからばその風土の如何なる点が良いのかということになると,私共にはまだ説明が出来ないけれど,事実何物か良牛の出来るという理由根拠がなくてはならない。たとえその理由がまだ分らないとしても,この良牛を生産するという事実は事実で何処までも否定することは出来ない。即ち牛は風土の産物というこの大自然界の法則の支配をうけて居るということをまさに肯定せざるを得ないのである,しかしながら最近この自然法則の力を軽視したかの如く余りにも窮屈なと思われるような体型標準が作られてその型枠の中に強いてはめ込もうとするような感じがありはしないか,私は風土が産んだ各々の地方的特色を尊重してこれを伸ばすべく体型標準の囚となることなくこの標準を活用して,例えば奥津の様な有名産地の牛の長所特長をば弥が上に伸ばして行きたいものだと思うことを附言する。

(筆者は元苫田畜産組合技術員)