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夢想愚想(4)

宰府 俤

 日本国内何処でも結構です。貴方が立ち止まった場所で四囲を見渡してごらんなさい。1本さえ見ることが出来なかったと,悲観し涙の抗議を申し出る人はないと思います。
 それほどに到る処に転がり,ありふれた風景なのです。時には上から横から圧迫されそうなおそろしい気持になることがあります。
 古ぼけた今にも倒れかかって来そうなものから,新調のコールタールのにおいのプンプンするものまで,様々の姿で私達の視神経を刺激してくれます。
 処で広告業が何時の時代から起り今日の重要な報知機関となったのか,その昔のことなど生僧と存じませんが,広告の場所を与え,とりわけ何々選挙だとかいえば立候補者によって,相手方の選挙民よりか珍重され優遇されることは,あらそえない事実であります。
 しかし,四界の風物の美しさを邪魔し,従来の犬のW.Cとなりやすいこの電信柱を何とか地上から立ちのかせることは出来ないものでしょうか。
 水銀柱が35,6度にも跳ね上がる昨今,厚さの加減で脳を取りまく脳水が沸騰し,この様な阿呆事を考えました。願くば若しこの愚想を読まれる方がありましたら私がこれを書いた時と同一条件のもとで読んでいただきたいものです。
 戦い終って5ヵ年の時の流れは何処からともなく焼跡に人家を運び,人の心に平和の女神をもたらし楽しい国が建設されつつあります。平穏をとりもどした世の中の人々は,道路に街路樹を並べておりますが,どうも電信柱との組合せがある限り,折角の並木道の美観がそこなわれそうです。
 100万円の宝クジが美事懐ろにころび込むか,今時流行の何100万円かの横領事件の主役者にでもならぬ限り,私達一介の労働者にとっては,あの邸宅の一角に横たわる庭園を所有することは終生出来そうにありません。持たざるものは無暗に持つことを欲し,得られぬを知りて代用品を得る小人の煩悩,その極に至りて天下の公道に植わる並木道こそ私達公有の庭園なりと愚想し,替玉を得た者の悲劇か喜劇か,街路樹と立ちならぶ電信柱と火花を散らさざるを得ません。
 一生一代の内に是非とも大庭園の主と化し冥土行きを敢行したいと,夏の夜に夢みる人々,誠に愚なるかな,汗を流しての夏の夢よりか,並ぶ街路樹の木陰に夢みる方が何程早道であるか知れません。
 我,環境衛生と煩悩の合致点を路傍に発見せり。
 そうして毎夜,日毎,電信柱と街路樹との見にくい配列を,かなしく思い並木道が大衆の庭園となるべく切なる祈りをささげております。
 処で庭園を造ることを造園というは万人周知の通りであります。造園とは……
 造園とはこれを簡単にいって見れば美しく植えつけることであるとか。
 独逸人ファルケ氏の言によると「芸術に征服された自然」であるといいます。あまり抽象的で丁度建築を「凍れる音楽」といったのと同一筆法であってはっきり致しません。
 詳細に定義づけ「植物,動物,岩石,泉水等自然材料と亭樹,彫刻,橋梁,道路等の建築物とを材料として一定の位置と面積との上に理想化せられた風景又は建築的構造を創作する術である。」と造園学者はとなえています。ともかく一から十まで岩と樹木の集まりで立体とか,曲線の美を大いに賛美している始末ですがサイダーやラムネを飲んだ後の様に頭にぴんと響きません。
 金もなければ,芸術に征服された自然美もわからない。矢張り天下の公道がなつかしい。従来の道路の並木から一歩前進して,道路の庭園化を実現する所以はここにあるわけです。
 我々人間生活において食欲,眠欲,性欲,知識欲等々種々の欲望がありこれ等の欲望があって個体の維持,子孫の確保大きくは人間社会の進歩が可能なわけでありますが今一つ忘れてならないものに色欲と云うものがあります。と云うのは古人の言を拝借してみれば万事納得がいくのでありますが,「人間は食うのみでは決して生きられない。如何に美味,美酒を味わうと誰も満目荒凉たる処では何の味があらんやである。耳は優しく聞き,目は麗しく観てこそ完全なる愉快を感ずる。如何に卓上の珍味あらんも共に美花なくば珍味もまた半減せられる」。又曰く「花は啻に其の美を愛するのみならず,花より発する大いなる自然の光輝と美と愛は家族全体の心を爽やかにし,子供はその情操を豊に且つ清められ,高雅な品格を不知不識の間に養成し教化は,正に言葉を以ていい表し得ず」と。
 秋播花卉の種物屋のオサキ棒を担いでいるわけではありません。
 結局の処,色彩というものが人間の感情に種々の感化を及ぼしているということです。
 赤い布切で闘牛の商売が成り立ちますが,人間界では最近赤旗を毛嫌いする人々が多い様ですがこれは別問題として,赤いパラソルさして道行く女共の後姿を眺めると闘争心は起らず又キタナイと思いません。これは綺麗なからで時には悦に入ることがあります。後姿の美しさについ真正面は如何なりやと急ぎ足しに,ふりかえり,ガッカリすることも時に,全く時にあります。
 或は緑の色が人心を和らげ,更には花言葉とか称して花で人間の感情を吐露し女学生あたり盛んと利用しています。これとて花の色彩がその起因をなしているのではないでしょうか。
 余談が余談を生んで長々と相成りお読み苦しいことでしょう。何も畜産便りだからと畜産に関係したことでなくともよいと思いますし,眠れぬ夜の催眠剤に1つ早速造園にとりかかります。
 扨て街路樹には種々あり,プラタナスイテフ,ニセアカシヤ,フサアカシヤ,ヤナギ,ポプラー,三角カエデ,アオギリ等々。
 先般或る人のお供をして林業試験場高島分場に参りましたがそこにヒスピダ・アカシヤという誠に美しい花の咲くアカシヤがありました,場長さんのオハコの様でしたが………これなどもってこいの逸物の様です。
 これ等の街路樹を単に路傍に植えただけでは決して道路の庭園が出来るわけでなく,問題は歩道を拡張することと,今1つ地上1尺の空間を如何に利用するかであります。
 緑なす芝草を,白クローバーを,そうして花壇を設け灌木を配置するのです。
 こうして色彩のバラエティを求め現代人の色欲を満足せしめ,路傍の庭園を完成すべきであります。
 こうしたことは都市に限定すべきものでなく更に地方街道にもどしもどし実施すべきであります。都市に比較し自然の風景に恵まれた地方においては路傍を庭園とすることは差程必要でもなく又路傍を庭園化することは相当の困難が伴うわけでありますが,せめて灌木或は肥料木位は植えたいものです。
 汗の流れと競争する如く愚想しやがて夏の夜のとばりがおりるころとなり冬の対策を忘れているに感ずきました。
 殺風景な冬景色は暖かい太陽の光線で満足するにしても何かしら物足りない。せめて窓越しの木枯しの風に耳をかたむけながら常緑灌木でも植えることにより緑が表微する自然の生命力を驚異の眼で見張ることに一まずに後は冬の寒さに身ぶるいつつ対策を練ることとします。(8月13日記)