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農家と養鶏

齋藤海蓮

農村恐慌の様相

 敗戦後数年経たないで未だ農作物が,買出部隊によって引張り蛸の時代から早くも識者によって,農村恐慌なるものが喧しく唱えられて,来ましたが其の頃は尚も農村は予想だもしなかった農村景気に酔呆れて其の対策を怠り,悪性インフレの波に追われて貨幣を粗末に扱い手当り次第に収入があるに任せて,不用な物資をまで買漁ってきました。しかし乍ら徐々と日本の経済が落着くに連れて,農村景気は霧消しつつある矢先,一昨年末から昨年春にかけての金融迫は遂に農村恐慌なるものが現実として姿を現わして来ました。
 戦時中並びに敗戦後3年間は果樹園による農家の収入は実に莫大なるものがありましたのが漸次普通経済が回復すると共に果物の価格は漸落の一途を辿り昨年に入っては緊縮財政と共に,通過圧縮のために,一般の物価下落に伴って農産物の価格の低落は工場生産物の価格以上の下落を齎し,果物の価格の下落は特に著しいものがあり,桃は近年稀なる不作の為め稍価格は維持されはしたが,柿に至っては大良作の為め大変な価格までに下落して果樹園にのみ偏依する農家の将来に対して非常なる暗影を招きました。戦後諸物資の不自由の時の果樹園による収入が予想以上のものでありました為め,各地に於て猫も杓子も的に果樹園の増殖甚だ著しきものがあり,桃の如きは此等の幼木が成熟した数年後には生食のみにては到底其の生産物の処置し得ない処まで来る事でしょう。勿論加工と言う事が一応は考えられる事ではありますが,戦前程に其の加工を延す事が出来るか否かは甚だ疑問と考えられます。又苹果の如き味柑の如き同様に,其の大豊作は其の価格大暴落となって,吾れ吾れ消費者側の人達にとって非常に容易に入手し得るので大変に喜ばしい事ではありましたが,他方生産者側の立場にあっては頭痛鉢巻きの有様でありました。苹果は数年後には植附面積の倍加するとの事でありますが,其の時市場に苹果が氾濫する事をば今日想像します時,実に膚に栗を生ずるものがありましょう。すでに果樹園によって農家の家計をばより豊にし得る時代は過ぎ去った観が強くなりました。勿論米麦を主とした農家の経営の困難な事は今日すでに喋々とする必要がありません。進んで主食の統制が外された時の其の惨めさに至っては筆舌に尽されないものがありましょう。
 幸にして岡山県は藺草が南部地方に於て,盛んに栽培されては居ますが,之れとても昔日の如く岡山県,広島県,大分県の特産品と言い得なくなりまして,西日本至る処で生産出来る様になりました従って藺草によって豊な生活を望む事の困難が次第に濃くなりつつあります。茲に於てか農家は必然に有畜農業によって其の家計を潤す外に途がない事になります。

有畜農業と養鶏

 有畜農業と言うと手近な処から,酪乳,養豚,養鶏,養兎等が先つ吾れ吾れの頭の中に浮んで来ます。
 酪農はこれを専業とする処に意味を生じ,副業的に営むには多大な困難が伴うと筆者は考えるのであります。先づ第一に乳牛購入の為めの資金の問題です。乳量の貧弱の牛でも一頭の価格が5万円をば下らないでしょう。若し乳量2斗を超すと称する牛に至っては20万円の金を投じて尚入手困難でしょう。斬の如く先づ第一に相当多額の資金を要します上に,毎日搾乳するに当って多大の労力を要します為めに,裕福にして或る程度の労力に余裕のある農家でなくては営む事が不可能であって,一般の農家が凡べてこれを創める事には多大の困難を伴います。又有畜農業として最も肝要な部分である肥料の獲得と言う点に於て非常に欠げる処があります。
 次に養豚に至っては地理的に全く不可能を伴います。結局が都会地に接近した農村でなくては,其の飼料を安価に手に入れる事が出来ない為め有利な事業とは言い難い事となりましょう。且酪農と同様良質の肥料を得る事が出来ない欠点も髄伴します。
 他に山羊,緬羊,養兎等有畜農業として多少利用し得る点はありますけれ共,養鶏の如く農家に取って有畜農業は他に求められません。養鶏も其の規模によっては固まり多大の資金を要しますが,乳牛とは異り小は3,4羽,大は4,500羽までは有畜農業として充分に活用する事が出来ます。今は農家として3,4羽の鶏を飼養していないものはありません。併し4,5羽程度では有畜農業として充分に活用する事が出来ません。先づ事を始めるに当って3,4羽からして出発し得るものでありますから資金と称する程のものを要しません。誰れにでも手取り早く着手する事が出来ます。この簡易な点に於いて他の小動物も同様ではありますが,養鶏程の利益を他の小動物は齎らすものではありません。併し有畜農業と称するからには副業養鶏と雖も30羽40羽程度をば飼養せずしては其の効果を発揮する事が出来ません。成程20羽以上を飼養するとせば,余程の大農でない限り自家生産の飼料にて飼養する事が出来ません。或る部分は必ず買入れた飼料に頼らなくてはなりません。しかし乍らこれは充分に補い得るものでありますから,徒に飼料の購入にこだわる必要はありません。有畜農業として最も有用な点は良質の肥料を得る事にあります。しかし良質な肥料を生ずる点に於て他の家畜は到底養鶏の足許にもよれません。鶏糞は孰れの作物に対しても不適な処がありません。果樹には言うまでも無く,米作によく麦作にもよく,藺草に亦よく,蔬菜には尚更によく,此の位無難な良質の肥料は他に求められません。誠に副業養鶏家の果樹園,田圃を御注意になれば,然らざる農家に比較して画然とした相違を認められる事でしょう。此れが最も大なる農家にとっての利点でしょう。
 適当な管理さえ誤らないならば小額ながら養鶏による食卵収入で農家の家計をば多少潤し剰え他に比較の出来ない様な良質の肥料を自由に潤沢に入手出来而も子女のために良き情操の糧ともなり得るものです。
 世界の国際情勢が緊迫するに従って化学肥料は急角度に不自由を告げる傾向が強くなりつつある今日,養鶏程農家にとってこの不安を除去し得る有畜農業は他には求められません。比の観点より農家一般に副業養鶏を極力推奨するものであります。
 100羽の成鶏を1年間飼養すれば,約1,000貫の鶏糞を得る筈です,これによって一町歩の耕地を二毛作するとせば大約1,500石貫の鶏養に僅少の硫安を補助肥料として使用せば,他の農家に比して尠く共2割の多収穫を挙げ得る事は万人の認める処であります。この見地からして農家と養鶏とは密接な相互関係にある事が察知出来ます。毎年鶏糞を施肥しますと土地が酸化する虞れがありますから必ず石灰を反2,30貫振り蒔く必要のある事を言添えて置きます。

養鶏に対する農家の心構え

 往時鶏飼の阿呆と言う諺が流布された事があります。今日でも尚それを信じている人があるかも知れません。この言葉は投機的に養鶏を企て,失敗した人達に対する一種の警句となっています。勿論畜産業其の実に地味な産業で投機の対称となる様な利益の莫大な企業ではありません。実に自己の辛苦の労力に酬いられて初めて小額の利益を挙げ得るものであります。決して濡れ手で粟を掴む式を考える人達のたづさわる仕事ではありません。
 近頃養鶏は非常に儲かるから創め様と考える人は必ず其の結果は失望に終りますから,養鶏を初める事は中止して戴きたいと想います。兎に角凡ての産業がそうではありますが,特に養鶏は其の傾向が顕著であります。非常に儲った翌年は必ずそれ程でない。他面それ程でなかった年の後には必然的に非常に利益が多いと言う事が先づ断言出来ます。従って利益が多かれ少かれししとして根気強く従事していれば詮ずる処相当程度の利益が挙げ得る事となりましょう。詰り景不景気に心を動揺させていては養鶏は所謂阿呆の鶏飼に墮してしまいます。卵価が低落すれば他の人よりより良く注意を払って10個の鶏卵を多く産ませば,他人は利益を挙げる事が出来なく共,其の人は小額乍ら利益を収められる事でしょう。如何に優秀な鶏を飼養していても其の管理宜しきを得なければ決して多産するものではありません。一般に鶏は産むのでは無く産すと申しますが其の通りであります。
 他方ちょっと卵価が下落した時に卵が安いとこぼしますが,今日鶏卵の価格は他の動物蛋白の食物に比して安くはありません。大衆的鮮魚に比較すれば,まだまだ高きに過ぎます。従って卵価は一層大なる下落のあるものと覚悟を持つ必要があります。兎に角も大幅の下落があってもこれに対処し得る熱意を持たずして不用意に養鶏に従事するとせば2,3年にして折角苦労して初めたのに直ぐ様放棄しなくてはならない破目に陷ります。
 兎に角副業養鶏としては大それた期待をば掛けずして,一般農家の収入の無い春先に多少小使銭をば鶏卵を売る事によって得られれば幸であって,場合によっては飼料代と食卵の販売収入とでとんとんであって,単に良質の肥料が充分に獲得し得る事の喜びに止めて戴く場合初めて其処に養鶏の真価を掬み取る事が出来ましょう。

養鶏と管理

 管理は実に重大な事でこの小文では其の一端すら説明する事は出来ません。故に要点を簡単に述べて止める事とします。
 誰れもが産卵の旺盛の時期には心持ちも楽しく且慾に馳られて実に綿密にして行届いた管理が出来るものでありますが一度産卵が落ちると愛鶏に対する関心が薄らぎ放任して了うが通常です。筆者はこれは全く逆の事だと極言したいものです。産卵の鈍っている時こそ鶏の生理状態に異常があるのであるから,良質の飼料を充分に与え栄養の向上を図るは固より一層親切な管理が必要であります。放任している時には産卵の回復が50日を要する時,之れと反対に親切に飼養してやれば,30日か40日で回復する事が出来ると断言し得るものです。即ち10日及至20日の相違を生ずる訳です。
 要は鶏の環境を快適にする事が最も大切である事を述べてこの拙文を閉じます(筆者は養鶏家)