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高座から客席へ
─日本畜産への希望の一石─
3部作の内(2)

在京 たけだ生

 とりわけ大正末期以来「畜産」が我国では何時の時代にも一種の脚光を浴びて来ていると言って,これに異論を唱える者は先ず多くはないであろう。事実畜産は光線の強弱の差こそあれ絶えず脚光を浴びて来ている。ほら,人口食糧問題が起るとそうであったし,農業合理化問題が採り上げられるとそうであり,そして国際貸借改善問題にぶつかるとそうであり又戦争が起るとそうであった。そして今戦争が終わって再びそうなのである。
 斯く「畜産」は時代の脚光を浴びている。だから誰も彼も直ぐこれを軽く口にするし,誰も彼も肯いて判った様な顔をする。畜産の指導者達は,だから,時を得顔にまことしやかに,その功徳を説いて倦むことがない。………「畜産」は正に人口に膾灸した………私共畜産人はよろしくこれをよろこんでいいのでもあろう。
 然らばこの「畜産」は,その脚光の強さの程に,又人口に普き広さの程に実際に農家や農村に,その有為の機能と量とを以って普及して居るであろうか?こうなると一寸返事に窮するの感無きを得ないのは只に私ばかりであろうかしら。私も戦前,戦時,戦後を通じ20年近くも,地方やら中央で略々その半分宛をともかく「畜産」の奨励やその関係施策に関し公務に従事して来たのであるが,今回公務を退いて,浪々なるままに過去の自らを静かに振返ってみると,うたた汗顔冷汗の交々至るもの凡百に及ぶのをどうすることも出来ない思いがする。
 「畜産」が夫々の時世,時世に何か脚光を浴びると言うこと自体が我国では抑々運命的な,これの特徴であるのかも知れない。それは,それだけ存在的には珍しいものであり観念的には魅力に富んでいて且重要さがよく判るものであり乍ら然し実際の普及には困難不可避の代物だと言うことなのでしょう。
 然り畜産は存在的には珍らしい!
 畜産は我国では概ね今世紀のニューフェースである珍らしがって官も民も妙にこれを特別に待遇するクセがあって,為にその有つ経済性を忘却か又は第二義に廻す傾を生じ当業一般者を作るより特殊な先生を作って了い,他面畜産の量なき品評会の崇まれる比類なき国をさえ現出したのである。言わば量と経済を忘れた畜産だった。例えば家畜を観ることが家畜を利用することよりも上等のわざとされ,角味が肉の味より高級とされる有様を呈した。又一の豪華牛を造るために百の普及牛を顧みることなしと言う余裕(?)まで生じ,そこら一般の牛は先生の目ざす豪華牛への途上の一片の石ころでしかないかにも見えた。斯くて家畜を観る先生は特殊高踏者流に世に処して自他共に何等異とせず「経済性」を奉納する多くの信者(?)に額づかれる神様とさえなりおおせたのである。まことに畜産は経済を忘れて珍らしがられ一般の入場御断り式囲いの柵の向う側の御身分と言う,これ又珍らしい現象をその身上とはしたのである。
 重ねて然り!畜産は観念的に魅力に富み其の重要性がよく理解される!
 畜産は詩歌の上でロマンスの香り高く絵画の上で又幻想的である。畜産のロマンスの園を夢み,牧場の感傷に憧憬する人の数は限りなく多く,その人達は家畜の糞尿の臭気の実現に鼻もかさず,只まぼろしの香りにだけ恍惚とする。又畜産は事実その本質に於て数多の経済的な効能功徳を具えているので,知性からも歓迎理解され易く,例えば我国農業の弱点補強の具に構想され,又例えば生活様式の文化への特効薬的取扱をさえ受けるのである。不思議や人間は不図も殆んど例外なく畜産物を賞味愛好するのであるまこと畜産は魅力に富みその重要性が理解される所似であろう。
 然し乍ら家畜は普及上には現実の困難がある,家畜は生き物だから当然死ぬ。何れは命を捧げて人間に寄与する「屠殺」は行われる筈ではあるが,生きものだから屠殺を待つこともなく寄与なき死亡だってある。
 家畜は生きていては飼料を食うし,糞も垂れれば小便もする。時には病気もあれば人に危害だって加えることがないとは言えない。だから畜産のロマンチックな夢は,こうした現実で目茶目茶にされないと保証し得る者とてはないのである。こう言う危険や入費と,手数や先生のある様な厄介事は,思いつき位で畜産を志す者には,とてもやり切れないに相違ない。ここに一つの普及上の困難がある。
 又我国では古くから一般に畜産に自らたずさわる者をさげすむ気風が津々浦々に漂っていて,外見はさり気なくするエチケットは一応具えては来ていても実際は仲々この気分がぬけぬ様である。屠場を嫌い屠夫を卑しみ,豚舎を視界から除こうとし畜肉,皮革等の取扱者を仲間とするのを恥じ,果ては馬喰,馬車輓と呼んで丸で,無頼漢の標本の如くに遇するの風潮は,何でこんなに陋固として抜けないのだろうか。
 斯くては理論や知性の奨励が如何に行われても感覚や感情のこのブレーキを克服するのは,生まやさしい事ではないのである,ここにも普及上の現実の困難が強く潜在している日本なのである。然るに又畜産指導の先生方は以上とは正に反して実に他の追随を許さぬかに高踏的である場合がなべて多いと私は見て疑わない一般農村は先生は特殊高級でコチト等の真似も出来ない方々であると思い込んでいるし,又指導者先生も,なるべくその認識をこわさないで置く方が便利と思っている様である。
 自分の子供の懲恙には,自ら家庭療法も試みる人であってもこと家畜のこととなると直ぐ獣医先生を迎えに行く,家畜が人間の言葉を話さないことは,先生にとっての仕合せなのである。又品評会の出品者が審査長と会話をしたとて,恰もマルコポーロにでも合った様に誇りを感じる程,先生達はえらいのであり或は又自分で五反百姓をするのがいやさの余り洋服シャッポに身をやつして畜産の指導や講演をブツて廻る稼業になったと言う先生のその御達者な話を,当の五反百姓の人達が,自己の経営改善に御利やくあらたかなれと念じつつ傾聴しているいみじき姿又は廏肥の練習会で先生が,白靴をはいて遠くの方から口先でアレコレ指導(?)をしているあの姿等々を見る毎に,私は現有畜産指導者陣に,実に多くの職業畜産講演師の居ることを発見しないでは居られないのである。私は以上の如く高座にますます畜産講演師の非実践的で高踏的(口頭的と言ってもいい)であると言う,自認且他認の事実に,日々畜産普及上の悲観を観念する一人である。然しながら他面最近,国民生活様式の変遷や農業方式の改善商品生産性の向上などから「畜産」への期待は,彌増しに増して来,家畜家禽に対する自覚ある需要も甚だ高まっていることは事実であり,このことが当今の「畜産」への脚光そのものなのであるが,惜しむべし,その円滑な供給は未だ充分でないのである。従って農家にとって生畜の価格は生産材としてはまだまだ高すぎると言わねばならない。
 飼料事情も現在極めて複雑な過渡期的表情を呈し必ずしも潤沢安価な供給が保せられていない。これが畜産物の価格を下げ得ない大きな原因を提供している。ここらにも「畜産」が大きな期待の脚光の舞台の上に立っていながら普及困難の衣裳で依然身を包んでいて思う様な身動きがとれないというのが,真実の姿であろう。政府にも必要な政策がありとすれば,よろしくこの舞台服を脱がして舞台から気軽に素顔で客席に導いてやることであるし,これに呼応して職業講演師がもっとくだけで,高座から客席に下りて一緒にアグラをかいて,一人でも多くの当業の人々と直々接してその御用に役立つと言う心情を豊かにしなければならないと切に思うのである。
「高座から客席へ」これが私の希望である。