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岡山県の牛市

岡 長平

 岡山県が中国切っての牛の産地であることは,兼ねて聴き及んでいたが,『日本山海名物図絵』(宝暦4年版,平瀬徹齊撰,長谷川光信画)を見て,その古くから有名なのに,今更のように驚かされた。「巻之4」に,「天王寺牛市」という題で,

 備前備中にて牛を飼ひ,子を産ます。則ち是を大阪天王寺に送る。天王寺屋孫右衛門と云ふ者,牛市の司なり。此人の印形なければ,諸国に売買すること叶はずとなり。年中,備前備中より牛を引き来ること,日々絶えず。毎年霜月に牛市あり。近郷の百姓思い思いに牛引き来りて,互に交易売買す。これを,牛博労と云ふ。すべて牛を商うに,直段相定まる時は,更に牛に米をかましむ。是を売買の証拠とするとか
 これに拠ると,既に宝暦の頃には,備前備中は牛の生産地,輸出国として全国的に,相当知られて居ったことが判るのである。これは,三大川を控えておった関係で,適当な放牧場を有してた為なのであろう。否,それに違いない。

 『池田家履歴略記』に,「元禄11年,備前に牛市を始む」とある。それで,何所で牛市を始めたか,に就いては何も書いてない。郡史を繰っても心当りの記録を探して見ても,薩張り手掛りがつかないのである。色々考えて見たが,これ亦,見当がつかない。結局,岡山御城下の,「市之町」だろう,というところに落付いたのである。それは,今の山崎町と丸亀町の西の通り全部を,「博労町」と呼んでたことが古図で判った。そして,其所には,宿屋が相当数許可されておった事や,床屋が4軒密集して許可されておった事などが,ダンダンに判って来たのである。これ等を思い合して来ると,「市之町」は相当大きな規模の市場だったことが推察されて来る。城下町繁栄の一策としても,岡山に可成り大きな「牛市」が開催されたであろうことが常識的にも想像出来る。斯う言った理由から「備前の牛市」は,岡山城下の市之町だったに違いないと,些か自慰的な結論に達しておるのである。ところが,新聞の抜き書きノートを見てたら,明治42年6月6日の中国民報に,「中国牛談」という見出しで,こんな事を言っておるではないか。

 昔,中国地方の牛市と言えば,先ず第1は,「伯耆の大山」市で,次が「作州一ノ宮」の市,3番目が「備前の木の本」市で,次が「伊予の松山」,次が「河内の駒ヶ谷」で,最後が「備後の杭の山」だった。そしてこの牛市を「打止め市」と言って,有名な業者,即,名代の博労の親方が,全部集まって来年の計画を協議し,盛大な親睦宴会を催したものだと言われておる。
 「大山市」は,4月6日から8日までで,勿論「旧暦」である。これを「草市」と言って2千頭ぐらい集まった。6月15日から20日までを,「涼み市」と称して同じく2千頭ぐらい集まったそうである。8月は23日から3日間だが,これを「経市」と呼んで,「日本三大市」と言われたほど,盛大なものだったと伝えられておる。牛も6千頭ぐらい登って来るが,牛を追いながら商売に来る博労も数千,見物旁々の大山寺詣りは無慮数万,話八層倍でも,相当人出だったらしい。名高い「雄町米」の岸本甚造翁も,この大山詣りの帰途,その苗を発見したことは皆さん御存じの通りだが,岡山辺からも随分出掛けたものに違いない。
 牛の名産地は,第1が但馬で,次が備前,3位が備中,第4番が丹後,それから作州で,これに因幡伯耆が続いた日本的に言うと,南部と能登が知られておったが,牛では備前備中などの敵ではなかったと言われておる。
 「大山市」の往還道路には,至る所に「牛宿」が在った。牛を引いて,大体1日に6里歩くのが常人と言うことになってたから,相当日数を要したそうである。そして,「牛宿」の料金が,牛と人間と泊って,2食付き3匁5分定めになってから,これ亦,可成りの旅費を要するのでもあった。しかし,育てた牛を市にかけると,普通,1両2分ぐらい儲かり,市が栄えると,2両近くも呼び声が来るので,遠路遥々大山目差して蝟集ったものだと,古老は語ってる。

 さて,上記の記事の中に出てる,「備前,木之本市」というのは,一体,何所だろう。「木之本」という地名に心当りがない宮寺を探して見たが,「備前一ノ宮の吉備津宮」で牛市の立ったことは,「市政提要」にも「社記」にも出てるが,そんな大々的なものでなかったことが窺われる。結局,思案の末が,「城」のことを,「おおき」,または,ただ「き」とも言うから,「木の本」は「城下」のことであろうと推断して,矢張り,「岡山城下市之町」を固守したいのである。

 しかし,牛の産地が,次第に南から北へ移ったようである。備前よりは美作,備中も高梁,新見,千屋と奥地の移動が漸次行われていった。それは,山陰山陽背梁山脈の南側に拡がってる高原が牧牛場に使用されだしたからである。日本原ヒル山原,阿哲山峡,等々に,大々的に放牧が行われることとなった。そして,寒い北部地方が,寧ろ好成績を見せるのでもあったのである。
 作州一の宮の中山宮の「牛市」に関し,明治43年1月5日の中国民報に,「作州一ノ宮牛市」と題して,次のように言ってる。

 中山神社の祭神は金山彦命で,鉱山の神様である。この宮を中心に,この附近一帯に,砂鉄の製煉場や鉄工所が密集してた。そこで,農具や日用品を買いに参詣人が集るので,門前市が繁昌しだした。その百姓を目差して,牛を売る者が現われ,遂に,「牛市」が開市されるに至った。市は,正月27日から15日間と,7月の27日から10日間だったが,6千頭から牛が集まった。「常市」は,毎月5の日に定められておった。
 この「一宮の牛市」は,加茂牛,奥津牛,富牛などの,当時評判された「苫田牛」を育成することになり,愈々隆昌を極めることとなった。
 運上銀として1枚を領主に差出す外に,神社造営のために売上げの5歩を支払うことになっておった。

 「湯郷の牛市」も西日本に聞こえた大市だった。牛市よりは,賽コロの方で有名だったので,『関西三大賭博市』の一つと言われておる。その筆頭,出石(但馬)の稲荷市で(初午の日,盛んな牛馬市が立ち,同時に,大工場が開帳された),次が備前西大寺の観音市(旧暦正月14日から1ヶ月間。その間,「冨」あり,「牛市」あり,「植木市」があって,集まる人々の大半は,賭博を目的とした。所謂,「会陽バクチ」である),3番目が作州湯郷の「牛市」である(土用の丑の日に牛を温泉に浴びさせると,達者になる,と言う口碑から,牛が沢山湯郷にやって来るので,そこで,「牛市」が立つことになり市を栄さすと言う口実で,賭博場も序いでに開かれることとなった)。
 『久世町誌』(昭和7年,久世町出版。編纂人,石井常太郎)を見ると,

 久世牛馬市の由来は,戦国時代の末期からで,今に地名の遺ってる「久世上ヶ市」の地に,創始されたと伝えられておる。当時,同所の住人,後安某が専ら其の事を司っておったが,「久世の宿」が置かれることになったので,同所上町に市場を移し,矢張り後安某も随伴して一切の事を支配し,事業の発展と倶に問屋数を増加して繁盛を齎した。
 慶長9年森忠政津山城主となり,美作一円を宰するに及び,毎年の運上(税金)銀1枚を納めて公認市場となる慶長10年)。其の時分,関西に於ける牛馬市場免許地は,大阪の天王寺,伯耆の大山,出雲の大東,備後の久井,豊後の某所,これに久世を加えて,都合6ヶ所のみなりきと言う。従って,久世牛馬市は,近国に於て唯一の免許地として,実に独占事業に等しかった。盛況想い見る可きであろう。其の開市には,関西各地より牛馬陸続として来り集り,其の繁盛雑沓,全く殷賑を極めたと伝えられておる。吉田博士(東伍)著『大日本地名辞典』の「久世」の条下に,「牛馬市あり,年々時季を定めて之を行ふ。慶長9年創設し,寛政中最盛を極め,3万匹の売買ありきと称す。これ『貿易備考』に見ゆ。云々」とあり。以て一班を推すべし。後安家の子孫連綿として斯業に従事し,現主福治郎まで,問屋株を有せり。
 この「久世市」の取扱う家畜は,殆んど和牛だった。備前,備中,美作,因幡,伯耆,出雲などの地方産牛の売買交換所で,その大多数は大阪へ搬出されたのである。例えば,阿哲,真庭西北部,日野などの幼牛は,久世に集まって,播摩,備前,備中南部及作州に供給せられ,出雲,伯耆,美作,上房,阿哲の牡牛は大阪に輸出され,美作東南部,苫田北部産の当歳牛は,久世から更に,真庭西北部,阿哲,高梁市場へ搬出されておった。
 古来,「春市」10日間,「秋市」26日間,「月次」6ノ日開市,となってたそうである。

 久世の町は,大袈裟に言えば,牛市で生存し,発達したのだと言っても過言ではなさそうである。それは,森氏没落以後,天領になってた関係からであろうとも想われる。
 「高梁の牛馬市場沿革」に就いては,中国民報明治44年7月5日の記事に載ってる。

 根元は天文年間と伝うが甚だ振わなかったらしい。寛永年間に水谷伊予守が松山(高梁の旧名)の城主となるや,城下南町の街路で,「卒(札)付売り」(正札付き)をなさしめたのが、まず濫觴と言って好いのであろう。自由売買を禁止して,運上(税金)を取り上げたのである。その市場の経営に当ったものは,陶山一族(8家ある)で爾来,その8軒が問屋株を掌握して,子孫代々その業を継承した。板倉公になっても,その制を改めず,明治に及ぶ明治7年,道路の妨害にもなるので適当の地へ移転せしめる議が唱られ始めたが,明治18年に現在の場所で,公衆衛生の必要から,開市せしめたのである。維新後,陶山一族は5軒になり為長善右衛門の6家が全権を揮うこととなった。現在では,面積990坪で,27棟の畜舎繋場兼用の牛舎を構え毎月3回(89ノ日),売買双方より5分の手数料を徴する慣習持続,明治43年度の売上高1万9,500頭,金額49万9,200円,内,「馬」7,600円………」とある。

 これを要するに,「牛市」の発生と発達は,「楽市」に帰因する。足利末期から戦国時代へかけて,都邑の発達という事が領主宰官の重大な政策の一つになって来た。その為に,「市」や「市場」に大きな保護を加えることとなった。それが,信長秀吉の時代となると,更に雄大な構想の下に,大々的な城下町の建設が企てられたから,「市」や「市場」の殷賑に対しては,非常識なほど保護を加えておるのである。これを,「楽市」と言った。令例は,「市」の日には,借財の請求罷りならぬとか,賭博は自由となし,酒女は勿論大目に見ると発表してるし(制札に書いてる),乱暴無法者の取締は,厳重に官がやってやると声明し,この日に限って,他国者を宿屋へ泊めても容赦する………等々と,迚も力コブを入れておる。而して,この「市」は,宮か寺の境内,その隣地かに限られておったらしい。岡山でも,玉井宮の傍に奥市,今村宮に新市,尾針神社に市場,御崎神社は四日市,春日神社が七日市,と言った具合に,宮の側に必ず「市」の地名が遺されておる。また,「市之町」の東裏は全部,寺なのだ「市」も色々な市が催されたであろうが,「農を国の大本」となした時代だから何と言っても,農の生命である「牛市」が第一だったであろう。続いて農具,衣食住の用具という順序に違いあるまい。
 享保以後,備前備中の南部では,棉,砂糖,菜種を盛んに作りだした。従って牛の生産飼育などに全く力を入れなくなったのである。
 一方,文化文政以後,「神社仏閣巡拝」と称する観光趣味が次第に流行し始めた結果が容易に楽しく出来だしたことも見遁してはならない。この風潮は,地方に散在してた「牛市」を衰退せしめて,「大山市」のような素晴しい「牛市」を成長発達せしめる事となった。その「大市」に出掛けるために,博労が百姓家を軒別に訪ねて,商売の種を工夫せねばならないような,情勢に変化せしめたのでもある。
 以上が,大略であるが,明治以後の「牛市」の変遷に関しては,若い研究家達に任せる。