ホーム岡山畜産便り > 復刻版 岡山畜産便り昭和27年7月号 > 千屋牛の今日

千屋牛の今日

阿哲東部地区農業改良普及所 赤木迪郎

 「黒いものなら阿哲においで,牛と木炭とは日本一」という言葉が盛んに流行して居るが,これは時の言葉として簡単に生れたのではない。今日の千屋牛の存在は先輩各位すなわち表面に現れざる先覚者の努力が今日をなしたのである。しかし知る者のみぞ知るでは千屋牛も浮ばれないので大方の人に照会したい。

緒言

 古来より和牛の生産地として知られたる本郡には諸所に良系統を生産する牛蔓と称せられるものがある。生産者も大いに尊重し,取引も一般の牛より高価なものが多い。之畢竟近親蕃殖による優先遺伝にして先覚者が遺伝を実地に応用して優良なる型質の固定に努め,優良系統の作出に成功し,今日に及びたる点敬服に価する。
 しかして本郡内蔓牛と称するものの内には,200年になんなんとするものがある。又それより別れて新系統を作出し,或は他県において優良系統として大いに栄えたものもある。なお,明治,大正の頃より常に優良系統を遺伝し,予備登録牛,本登録牛を生産し,地方和牛の改良に功績を顕しつつ新系統もある。由来蔓牛と称するものは体型,性質,角質被毛皮膚等の如き資質の優秀のものは,連産して蕃殖成績良好なもの等があったが,その後において唯名のみ存続し殆んど中絶したもの,又作出当時の型質より劣等のもの等あって却って改良に悪影響を及したものもあった。
 ここに従来より有名な蔓牛或は近年に至るまで優良型質を遺伝するものにつき探求して起源,特色,現在の状況及び保存状況等調査を行い,優良なものについては保存の方法,配合の方法等を考究して理想とする優良新系統の産出に生産者指導者共に,一致協力して目的達成に邁進している。

阿哲郡の地勢と産牛

 本郡は岡山県の北部に位し,北は真庭郡及び中国山脈を界し鳥取県日野郡に接し,東は上房郡,南は川上郡,西は広島県神石郡,比婆郡に接し,古来より有名な千屋牛は郡内北部千屋村を中心として新郷村,菅生村,上刑部村の4箇村産のものを称したるも,現在においては適正なる蕃殖育成により郡内至る所,良牛を生産するようになった。郡内畜牛の総数は,昭和25年において約1万頭を飼育し,生産も3千7,8百頭に達し,農家1戸につき多きは10数頭,少なきも1,2頭を繋留飼育し,改良生産に努めている。しかして郡内7万余町歩の山林原野を有し,野草良く繁茂して清泉潺々として流れ,天然の良牧場である。その所有の如何を問わず放牧して悠々飽食に委す放牧は,春八十八夜(5月20日前後)から11月下旬に至るその間酷暑の候約1箇月位舎飼炎暑を避けるのみにして,約半年の長きに至り昼夜放牧により山野を闊歩し,充分なる鍛錬により筋腱の発育良好,肢蹄又堅牢,性質極めて温順となる。冬期舎飼中は居宅と牛舎を兼ねた内厩にして,台所を殆んど同じうし,炉の暖りを受けて慈愛に満ちた飼育が行われ,優れた自然の利に加え愛畜心による人畜親和の結晶により良牛を生産するようになった。
 天保年間千屋村の素封家太田辰五郎氏は牛の改良に力を尽し,私財を投じて千屋牛市を創設し,広く顧客を吸集し,販売の便利を開き,優良千屋牛を全国に紹介して阿哲郡産牛の名声今日あるの基礎を造ったのである。この功績により明治33年第1回中国5県畜産共進会において農商務大臣より追賞せられ,又後人その偉徳を偲びて昭和2年広く県下の有志相計り千屋市場の傍に巍然たる豊碑を建立してその功績を表彰した。
 明治35年法律制定に伴い産牛馬組合を設立し,その後畜産組合と改称,爾来組合長として田原藤一郎氏及び土屋源市氏不抜の熱意により一貫せる指導方針の下に,あらゆる困難を排除して諸施設を整え改良発展に努め,就中改良増殖は一貫せる種牡牛政策の如何によるを痛感し,大正6年組合有種牡牛制度を作り改良の基礎をなし,なお家畜市場の統一を計り,販売の統制及取引の改善を行う等により阿哲郡産牛の声価も一層発揚するに至った。
 なお大正9年郡内畜産関係者相計り畜産会社を設立し,萩野繁太郎氏,田原藤一郎氏及び土屋源市氏等その職につき,畜牛の預託,牧場の経営,候補牡牛の育成等をなし,常に畜産組合と提携し,郡内畜牛の改良と増殖に寄与せられた。

 追賞授与証

 岡山県阿哲郡千屋村 太田辰五郎

夙に意を牛馬改良蕃殖に注ぎ巨費を投じて牛馬市場を創設し売買の便益を計り,或は種牛を改良し善良なる犢牛の産出を奨励する等刻苦経営の結果千屋市の隆盛と千屋市の名声を博するに至る。その遺続永く芳し
上審査の薦告を領し志学に於て授与す

 明治33年10月8日
 農商務大臣
 正三位勲二等 曾稲荒助

竹の谷系統

所在地 阿哲郡新郷村大字竹の谷

起源

 今を去る約150年前,新郷村大字釜字竹の谷難波元助なるものあり,隣村千屋村の太田辰五郎氏と相並んで地方屈指の富を有し,且信望厚く自ら牛馬を集めて改良の範を垂れ,時には私財を投じて良牛を飼育せしむる等改良に業績見るべきものありしも,文化6年4月11日病没す。その長男に千代平なるものありて父の志をうけて業を引つぎ,壮年にして牛馬商を営み,良牛を求めて自ら飼育するとともに,居村農家に多数預託飼育せしめ,又貧農に対しては無償にて畜牛を飼育せしめてその家計を扶くる等畜牛改良に志すとともに博愛の念厚く,天保初年偶々牡犢を分離したるに骨格優美4才において体高4尺2寸余に及び,妹牛又優良にして4尺1寸余に達す,共に繋養して蕃殖に供し良牛の生産に努めたり。牡牛を生産したるものは4才まで飼育して血統正しきものに対し種付に供用し,極度の近親蕃殖を行いたる結果良牛相次いで産出し,竹の谷牛の名地方に高く,競いてこの地方の牛を求むるもの続出し声価彌々挙り,当時出雲国仁多郡鳥上村卜蔵清七の売却したる牝牛の如きは金子100両なりという,如何に名牛を出したるかを窺うに足る。
 次いで千代平の長男栄エ門は父の遺業を継ぎ熱心に畜牛改良に志し,自己所有の山林を伐採して放牧の設備を行い山の渓狭放牧牛の監視に適する土地に下記の如き居宅と牛舎を建築し,下男3人を雇い管理に改良を加え,良牛の産出するものあれば売却することなく保留し,附近農村に対しても同系統のものを飼養管理せしめ,生産犢の優良なるものは務めて保留せしめたるため同部落より良牛の生産多く,竹の谷系統牛の名声彌々宣揚せらるるに至り今日に及んだのである。如斯にして本県は固より中国地方の和牛界に古き歴史と優良牛の生産とに冠絶せる点は実に難波家の功績にして,その不屈の努力と功績に対しては筆舌につきざるものあり。現在は難波源作の妻たみ氏わずかなる農業を営み,竹の谷蔓の名を捨てざるため同系統の登録牛(予備登録牛)を飼育せり。

居宅及び牛舎見取図

 難波家先祖10代の調
元助の父 天保元年死
元助 文化元年4月11日死
千代平 安政5年9月9日死
元助 文化9年2月18日生,明治19年3月17日死,74才
栄右衛門 天保元年11月16日生,明治25年10月8日死,62才
喜右衛門 嘉永4年6月12日生,昭和4年1月3日死,73才
源作 明治15年11月5日生,昭和13年10月25日死,57才
たみ(源作の妻)
時吉(養子)

特色

 体格は一般牛より稍々大にして体積あり,被毛は黒く繊細密生し光沢を有し弾力あり,背線に微かに秀節的の鰻線を現わすものあり,角は概ね上向外彎にしてい字型を呈し稍々細く,その色は角根鉛色中央部水着色,先端は黒色にして現今においても最もよく遺伝している。眼は活大にして温和の相,頭は中等大にして額広く頸部及び垂肉(胸垂)稍々大なり,胸は広く?甲にして強く背線直にして腰強く,後躯の発育特に可良にして,しかも活発年を経るも老衰の度少なく,繁殖力旺盛加えて遺伝力極めて強く,その体型は一見して他牛と識別し得られる。

系統牛保存の施設

 新郷村においては系統竹の谷蔓を保存し,一層優良牛の普及を計るため役場を中心とし村内熱心家相計り昭和16年9月17日竹の谷系統牛協会を組織し,同系統の原種を登記し,生産犢に対しては血統書を交付する等保存蕃殖に努めつつあり,当時の会則を記す。

第一条 本会は竹の谷系統牛協会と称し事務所を新郷村役場内に置く
第二条 本会は新郷村一円を以て区域とし竹の谷系統牛を飼育せる者及び本会の趣旨に賛同せる村内有志を以て組織す
第三条 本会は古来名声を博したる竹の谷系統牛を保存し益々之が改良増殖を図りその声価の発揚を期するものとす
第四条 本会は前条の目的を達成するため下の業を行う
 一 系統牛の調査及び名簿の作製
 二 系統牛の保留指定
 三 系統牛の展示会開催
 四 功労者の表彰
 五 その他本会の目的達成上必要なる事業
第五条 本会の指定したる保留牛は会長の承認を得るにあらざれば売却又は譲渡すことを得ず
第六条 本会に下の役員を置く
 会長1名,副会長1名,評議員18名
第七条 会長は本会を代表し会務を総理す
 副会長は会長を補佐し会長事故ある時はこれを代理す
 評議員は会長の諮問に応じ事業執行の状況を監査す
第八条 役員の任期は2年とし総会において会員中之を選挙するものとす
第九条 本会は暦年度に依るものとしこれが経費は会員負担金,寄附金,補助金及び借入金を以て充当するものとす
第十条 本会は毎年2月定期総会を開き経費収支予算決算及び重要なる事項の審議をなすものとす
第十一条 本会会員にして第五条の規定に違反し著しくは第九条の負担金を納付せざる者又は本会事業執行上不都合の行為ありと認めたる時は総会の決議に依り除名するものとす

 附則
本会は昭和16年9月17日之を設立す

 以上のような協会を設立し保存改良蕃殖を図りつつあるが,岡山県千屋種畜場においてはこの系統の保存と蕃殖及び改良の基礎牛として直系に属する早美号を購入し,その生産牛を代々飼育し蕃殖を図れり。

附記

 竹の谷系統牛早美号の経歴を参考のため記す。早美号は竹の谷系統牛直系にして,しかも同系統牛中最優秀牛であって現に中国7府県連合畜産共進会及び県共進会においても,優秀の成績を挙げている。
 早美号は大正13年9月10日阿哲郡新郷村大字釜字田口田村定蔵氏の預託先同村大字釜字三坂の三坂次郎氏宅に生る。翌14年10月125円にて同村太田初太郎氏購入,同年11月千屋市場にて130円にて吉備郡総社町牛馬商坪井一男氏購入,本県南部地方にて預託育成せられたるが,15年10月阿哲畜産会社へ300円にて転売,昭和2年12月500円にて岡山県種畜場千屋分場に買い上げられたが,その優良なる体格と系統牛蕃殖の点より昭和13年3月31日15才にして畜産試験場中国支場に買い上げられたのである。
 千屋分場に飼養中竹の谷系統特色を顕著に発揮し,体格優美にして老衰の状なく,しかも益々良牛を生産し,現在千屋種畜場においては同牛の子孫を多数飼養し,改良原種牛として増殖に努めつつあり。この早美号は,種牡牛第十三花山号とともに賞讃せられ,その功績顕著である。
 更に昭和24年元代議士現阿哲畜産株式会社社長土屋源市氏率先し自ら組合長となり,これが保留増殖のためこの協会に更に千屋村を加え竹の谷蔓牛改良組合を作り,元の規定を改正し,その改良目標,産犢保留規定等を定め,目標に向って一層の拍車をかけつつあり。

目標

一.品位に富み体積豊にして体の締り宜しきこと
二.四肢良く締り蹄強固なること
三.泌乳宜しきこと
四.角の形質及び皮膚被毛の状態宜しきこと

竹の谷蔓牛の改良すべき点

一.肩及び肩後の凹陥の状態
二.背線の状態(登録と腰)
 備考 竹の谷蔓牛改良組合産犢保留規程は略す。

事業

一.蔓牛飼育管理共進会
二.保留牛成績検査並に蕃殖成績調査
三.基礎牝牛指定検査
四.保留基礎牡牛に飼料の特配
五.昭和25年度中国7府県連合畜産共進会1等賞(国有牛買上)第六清国号設置補助金として18万円の支出
六.研究会の開催
七.表彰会

組合の現況

組合員 149人
 千屋村 89人 新郷村 60人
基礎牝牛数
 正牛 24頭
 千屋村 12頭 新郷村 12頭
副牛 169頭
 千屋村 102頭 新郷村 67頭
保留牛 13頭
 千屋村 12頭 新郷村 1頭

大赤系統

所在地 阿哲郡千屋村大字実

起源

 太田辰五郎翁は備中阿哲郡千屋村字実の豪農太田正蔵の子として生れ,公益博愛の志篤く且つ義侠心に富み身を奉ずることうすく人を待つこと厚し,天保年間の大飢饉に際しては禀米を出し所持金を尽して近郷を賑わし,又生産する錬鉄を朝廷に献納して忠誠を致す。特に殖産興業に力を注ぎその家業とせる製鉄業を盛んにしたるのみならず,かたわら熱心に畜産改良を企図し千屋地方の畜牛は古来より副業として飼養せるもその頭数少く資質又劣等なるを慨し,衆に率先して巨費を投じ良牛を遠近に求め,前記竹の谷難波千代平より購入せる牝牛は竹の谷の粋にして当時自家繋養の10数頭の牡牛中最も強大のものを配したるに1牡犢を生産せり。該牡犢は赤毛なりしも骨格極めて良美併せて体尺4尺6寸余にしてその偉大なるは時人一驚を喫したりという,しかして本牛を種牛として種付に供用蕃殖を計りたるに赤毛なりしも黒毛の極めて優良な犢を多数得,改良の効果顕著,之等の系統を長く蕃殖に供したるを以てその系統固定するとともに種族広く地方に伝播し,千屋市の隆盛と相俟って愈々その声価を発揮するに至る。

千屋市の経営

 前述の如く千屋牛改良増殖に努め多数の産牛を生産するに至りたるも未だ之を販売機関備わらざるを遺憾とし,天保5年5月半夏を期し千屋村字市場小字馬乗馬場に牛馬を集合せしめ売買を試みたるに始り,爾来規模を拡張し毎年夏冬の2回,夏は半夏冬は10月10日(旧暦)を以て定日としたるも当時地方は未だ牛馬市の何んたるを知らず,これを利用するもの少きを以て,翁は自己の畜牛数百頭並びに同族太田伊左衛門の数百頭を出場せしめて品評等位を附してこれを賞与し,又牛馬市最終においては該市中最も強壮なる牡牛若干を撰みて闘牛(突合)をなさしめて市況を添うる等一意市場の隆盛を図り,又天保8年の頃より弘化年間に至るまで千屋市衰微の兆ありしを以て翁は大いにこれを憂い,地方牛馬仲買を業とするもの数10人に対して畜牛購入資金を5年乃至10年賦を以て貸与し,地方産牛を買い集めて牛馬市に引出さしめ又商店旅人宿業者に対して糧米その他需要品に至るまで悉く時価の1割乃至2割を軽減売与し,就中牛馬市のために要する家屋並びに敷地料の如きは総て無料貸与する等千屋市の繁栄を図りたるため年次盛大となり,千屋市の名は全国に知られ,地方民の大部分は千屋市を以て糊口するに至れり。
 後人その偉徳を偲びて市場の傍に碑を建立して表記し長く記念とせり。

 太田辰五郎君記功碑

君諱政恭五郎太田氏備中阿哲郡千屋村人村在陰陽両道彊界四面皆山乏田圃居民不能以稼穡為生牧牛焼炭或採鉄以補之君家亦累世以採鉄牧牛為業富冠中備数献金又恤民受褒賞許稱姓帯刀君謂牧牛最有益於民擲巨費買良牛分飼村民毎年定日使衆牽来品評優劣以励之天保五年五月遂開牛市聚近郡牛主牛商売買之其費皆出於君是為千屋牛市之濫觴君為人豁達有侠気鋭意営業為牧牛投資毫不吝多方改善千屋牛声誉漸聞遠邇不幸中年病歿家道逐衰而牛市則益盛大爾来数十年不絶出之博覧共進諸会常膺優賞年年所得数万金以山間僻邑透及四郷郷人皷腹楽業挙君之賜也官追賞其功民亦思其徳不己頃者謁謀欲建碑記其功遙謁余文金乃作銘日

 牛犢擾擾 干皐干阿 放牧代耕
 乃飽乃歌 家産雖墜 郷産則興
 功徳千古 豊碑峻

明治44年7月
 東宮侍講正四位勲二等 文学博士 三島毅撰

太田家系図

  源三位 伊豆守 駿河守 左衛門尉 左衛門尉
頼政──仲綱──広綱──隆綱───国綱───資国摂津守 太田代孫祖道灌公 文明18
         伊豆守 太田守 左衛門尉 備中守        酒造五郎源八郎
年7月26日没─資治──資兼──資房───資清──持資──資定──図書助──資政
 左衛門尉  彦五郎                     
─資可──政孝──森三左衛門可成に仕えり──孝房 森武蔵守長一に仕へり────
政幸 虎市後右馬五郎美作守忠政に仕えり 録2千石を領す──政辰 平衛門後甚内森家に仕えり──政秀 森家を退去し浪士となる 作州久世郡に閑居す──政重 理左衛門
                   理左衛門 始は亀之助又左衛門次に理左衛門
備中英賀郡 佐根村市場に居を移す──政次──政春───────────────
  三左衛門 正蔵                        八太郎
光政───政克──政恭 辰五郎 嘉永7年53才2月18日病没──政方──七郎─愛

特色

 体格優美にして体積にとみ肢蹄堅牢なり,背は平直なるも薦骨稍々高きものあり,被毛は稍々褐色をおぶるも時に期節的鰻線のあるものあり,顔は気品を備え角質良く角型稍々細長くして鉛色を呈するもの多し,蕃殖力旺盛にして連産し老令に至るも老衰の状なし。
 傍系として寺田系統あり。(続く)