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千屋牛を語る鼎談会
阿哲畜産の縦横記

阿哲農改室 牛 涎 生

著言

 このことについては春以来計画し夫々材料を収集中のところたまたま備北新聞社仲田氏が計画せられ去る10月中旬相談に来られたところ偶然にも意見が一致したので種々のテーマを提供すると共に大いに斯界の為に公開する事を激励した。
 ここに畜産農家諸氏並びに指導者各位に幾分でも参考になればと思い同氏の意を了し転載しおおかたの参考にしたい。
 なお鼎談会は10月29日新見町阿哲郡畜連会長室に於て開催し出席者は梶並千屋種畜場長宮崎郡畜連会長及び土屋阿哲畜産KK社長司会者仲田主幹
〔司会者〕 今日は公私共御多忙のところ斯界のエキスパートに御集合を頂きました事を感謝致します。つきましては日本一といわれる千屋牛について鼎談を煩わしたいのです。最初に千屋牛の定義と申しますか県南部地方では千屋村に産する牛の様に思う人が多いようですがこの点位からお話に入って頂きたいと思います。

千屋牛の歴史

〔梶並〕阿哲郡内に産する牛は総て千屋牛だ。
〔土屋〕同じ和牛でも但馬は但馬牛という。阿哲郡産の牛は全部千屋牛と称する。つまり千屋牛は阿哲郡の総称であり,代名詞である。
〔宮崎〕阿哲牛というよりか千屋牛といってその概念は阿哲郡内産の総称ですね。
〔土屋〕他国のものからすれば千屋牛で結構通る。日本一は至る所にあって但馬に行けば但馬が優れていると思っている。
〔宮崎〕その点は,要するに一般農家が決めるので愛好される度合によって定められるんだね。
〔土屋〕兎に角千屋牛は飼い良い,肉質のよい,使い良い,長持ちして,つまり長命である事が愛好される原因であると共に他所の牛は子供を2つ3つ生むとすぐ崩れてしまう。千屋牛は何時迄も若牛のように溌溂さを失わない。その点が優秀なのですね。
〔梶並〕そうなんですね。
〔土屋〕原種は日本の牛の共通は欠点をもっていた。改良されたのは「竹の谷」の頃からだと思う。昔からよい牛が生産されていたには違いないが,その機縁というものは千屋の太田辰五郎氏が作った。同氏は砂鉄業を営んで,当時は洋鉄はなかったから中国山脈の裏表に産する砂鉄を生産していた。たしかに太田辰五郎氏は三代目で,其の後千屋から刑部勝山にかけてその辺一帯の山持であった。いわば地方の豪士でありその全盛時代に牛に目をつけて自分の持ち牛を,他の百姓にかした。それを集めて初めて,牛市を開いたのが天保5年の「半夏至市」であった。勿論この時には地方の商人も集まり「竹の谷」から蔓牛も持って来ていた。それがもとになって,今日の千屋牛が生れた事になる。又一軒釜の「竹の谷」(新郷村)の鉄山師として難波家があった。「一軒屋」という家号でそこの家でも牛がいて,今から120〜30年前で,難波千代平の時代だが,これが千屋牛の原種としては,日本最古のものであろう。僕が直接聞いたのは,其の難波家の喜右衛門さんという人からであったが,生きていれば100才位であろうが,何でも島根県仁多郡鳥上村千通山の下の「千年屋」という鉄山師が,いい牛を集めるのに「竹の谷」に買いに来た,ということだ。出雲に帰ってからそれが市の元祖になった。当時1頭の千屋牛を銀一升で取引きしたそうだ。

牛の原産地

〔宮崎〕牛は狸や兔の様に,神代から野生していたものだろうか。
〔土屋〕原産は印度だ。
〔梶並〕矢張り支那,朝鮮を経て印度から日本へ渡来したものらしい。
〔土屋〕島根県の牛は前にも言ったとおり「竹の谷」から入れたもので改良した。恰度,明治33年に島根県志学温泉で,中国5県の第1回畜産共進会が開催された。その時に畜産奨励の功労者として,農林大臣よりト蔵清七氏と太田辰五郎氏が没後追賞された。その頃としては,例のない事であり,両氏とも竹の谷の蔓牛から和牛を改良した功労者として全国的に知られた。又難波家の飼育して生れたコツテイ牛(仔牡牛)は3才迄は自分の家に残し,それ以後に売るという様にし,血が固定しなければ出さない事にしていた。
 悪い遺伝質もなく,血族の近親繁殖をさして種牛を作ったから,良い系統が繁殖したという事に竹の谷は,あずかって力を致したことになる。

註「バクロウの語源」

 現在の家畜商の事を俗に「バクロウ」と称して近くは映画にも「馬喰一代記」というのがあった。これは,関東には東京日本橋に「馬喰町」というのがある。大阪には地名で東区に「博労町」というのがある。「馬喰」が本当なのか,或は関西の「博労」が正しいのかは別問題とし,「場苦労」の方が案外本当かも知れん。又関東流では物を交換する事を「バクロウ」とも言っている。
 要するに「バクロウ」は牛を商うことで,これを仲立する事を「バンゾウ」といっているが,「番頭」の代語ならんや
〔宮崎〕要するに太田さんの「市」は販売政策に,力を注がれ普及して今日の殷盛さを見ることが出来た。そのもとはと言えば,竹の谷の蔓牛という事になりますね。
〔梶並〕そうなんですね─

千屋牛のはじめ

〔土屋〕その頃は道路はなし山林は無価値なもので木炭は単に鉄山用のものと,百姓の自家用だけの需要を充たして極めて林山資源の活用は狭い状態であった。そこへ来ると,牛や馬はその頃の経済価値観からすると運賃もかからないし遠くからでも歩かせるし普及性と経済価値が高かった事になる。
〔宮崎〕世間で言われている雨傘と簑を背負って牛を引き連れ幾百里の道も遠しとせず道なき道を途中宣伝しつつむ千屋市迄辿って来たんですね。
〔土屋〕それは太田家があったからだ。幾日でも幾人でも太田家は宿泊させて面倒を見ていたから,それを頼りに集ったのだ。千屋市は今は淋しいが多い時には2,500〜600頭も集ったものだ。
〔梶並〕受付が下の方まで延々と続いた事があった。
〔宮崎〕牛の波をなしたといいますね。
〔土屋〕1頭の牛の売買に西は広島,山口,石州(岩見国)辺の博労が鎬を削ったものだ。又きれいな牛が沢山集って供養田植の時などには牛の角に赤い布を巻き鞍の上には幟を立て,首飾りをつけて見たところ「ライオン」の様に盛装し田の中を歩きまわるのだ。足も短く田の土に腹のつかるような雄大なものが好かれた。後駆は最初は貧弱であったが,時代の要求に合致させるように改良された。それは明治40年に畜産組合が出来てからだ。その改良には「花山号」の功績が大いにあった。かくて畜産組合が生まれると,それが中心になって千屋牛の改良指導に乗り出し僕が関係したのが明治41年であった。其の後大正10年には県の種畜分場が千屋に設置され,続いて昭和12年に種畜場となった。ところがこうして千屋牛を畜産組合なり,種畜場が力を入れて改良育成しても資本のない場合は他所から来て買いとられて折角のいい千屋牛が郡内から姿を消してしまう。勿論畜産組合に補助金制度もあったが,それでは追付かない。

郡内和牛総頭数

  阿哲地方事務所最近の調査によると郡内の和牛は9,986頭で1万頭を割っているが,戦前の1万3,000頭に漸次近寄って嬉しい現象である。岡山県総頭数の約1割

阿哲畜産会社の誕生

 郡内保略牛が逆結果をもたらして,次次と高値買をされて,他所に持って行かれ,優良種畜の折紙をつけることが保留牛の役割を果すことにならなかった。そこで,その弊害を是正して優良牛の郡内保育を目指して,大正9年に「阿哲畜産株式会社」を創立した。それは他の資本に対抗して優良種畜の郡内保有を画策したからだ。20万円の資本金で会社を作ったが株主には親牛を預ける制度とし当時300頭位の親牛を所有していた。時恰も不況のどん底で,豊永の荻野繁太郎さんが全財産を投げ出したのもこの頃,株なら「木の株」も否という時代だけに5万円の払込には骨が折れたものだ。残りは各村に割当て募集した。斯くて阿哲郡の畜産振興に寄与して種牛の養成もし,また農工銀行から5万円の融資を得て,当時約800頭の牛を保有し元牛200頭,種牛150頭,牧場には400町歩を4つに区切って,2〜300頭放牧するという具合であった。兎もあれ阿哲の畜産業は何処迄も畜産組合が中心で県は上から指導し畜産会社は資本的に協力して発展を計った。大正6年に組合所有の「種牡牛制度」を創り本郷村には一時20頭位の種牛が飼育された事があったが,年内に売ってしまった。その様な状態では計画的な改良が出来ないので,組合有種牡牛制度にしてその頃新砥村,万才村,の様に1頭も居らない村に配置した。仔牛を生んだ頃には親はいないということもあり,本郷村に育成牛の多かったのもその頃と記憶している。
〔宮崎〕坂手,本村氏などあの頃皆売ってしまったのか………

千屋牛の資質

〔梶並〕千屋牛の資質が崩れない様に改良され,次第に固定してよくなったのは第一に放牧するからである。特色は温和しいとされているが,これも放牧により人との接触する機会も多く,可愛がるから温順になって来たのである。つまり改良育成により固定馴致されたといって良い。
〔土屋〕千屋では,人間は右側通行しても馴らしてある牛は自動車などはよけて必ず左側通行をしている。
〔梶並〕「メンコ」(弁当を入れる容器)今の弁当箱をもって馴らす,それには牛の好む味噌漬とか飯を入れて与える習慣をつけると,しぜんにそれを叩くと寄って来る。食物で馴らして人を恐れない様に仔牛時代から躾をしている。
〔土屋〕大佐山(刑部町)の麓に,田代というところに一軒家があって,そこへ牛の調査に行ったことがある。牛が1匹も居らんので"お婆さんにどうしたのだ"というと,いや今すぐ呼びますといって板切をかちかち叩いたら牛は残らずぞろぞろと帰って来た。これなども平素から牛をだまさない様に帰ったら食物を与えて馴らしているから板切れの音で呼ばれたことを知ったのだ。
〔梶並〕種畜場でも面白いことがある。牧場に放牧して時間が来ても帰らないので,人が行くとその声で帰る時間を知って裏道を人間より先に帰ったためしがある。千屋牛が粗食によく堪えるのも何時も草を喰べて平素から胃腸が丈夫になっている。それで吸収力も非常に強く,よく粗飼料に堪えるように出来ており濃厚飼料を与えると却って悪い。精々2割程度を給与するのがよいようだ。

石灰藁の作り方

  切藁1貫に対し,生石灰なら80匁。消石灰なら100匁を水1斗にとかし,その上澄液に切藁を2−3時間浸し,これを水洗いして牛に与えると良い。すぐ藁を与えるより栄養価が高い。

石灰藁の栄養

  粉澱価は藁のみで17.5これを石灰に2時間浸したもの39.9。石灰藁として煮沸2時間のもの41.0。同じく3時間のもの45.5。の栄養価を示している。
  澱粉価というのは,蛋白質,炭水化物,脂肪などの成分を示す。これを栄養価値という。

粗食と繁殖関係

〔宮崎〕大抵お爺さんの時代にどういう型の牛が飼いよいかをよく教えられたものだ。粗食でもよく妊娠する様な牛は何時しか先祖から教えられて,それが子子孫孫に伝えられた。
〔土屋〕放牧という事と粗食に堪えるということが大いに関係があり,第一に飼育管理に好都合である。千屋牛が好かれる原因もそこにある。胃腸も仔牛の時代から拡げているから大きくなっても自然にいい事になる。
〔宮崎〕千屋牛の繁殖は大体普通は15〜16才位迄だと思うが………。
〔土屋〕特例として菅生村の長尾氏が飼っていた牝牛で29才になり全身が白毛になっても子を生んでいた。確か17〜18頭を生み,飼主も飼殺しにするといっていたが博労に売ってしまった。
〔梶並〕まあ─普通に繁殖期間は16,7才ですが,そんな古いのは異例だが,種畜場にも15,6才のも居ります。
(つづく)