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河川敷利用の一事例

 6月8日附日本農業新聞が,“草生改良のヒット版 河原が牧草地帯に 石原潔さんの苦心実る”と大書題して,河川敷利用の現地探訪を試みている。
 草地農業という用語さえ生まれた程に草地の利用が重要視され数々の施策が当局者の間に論議されている。
 山間牧野の高度集約化による酪農,或は河川敷利用による河川酪農等草に立脚した酪農経営形態がいくつかに分類されている現状である。
 日本農業新聞記者の鋭い眼に止まったこのヒット版も河川酪農の成立を約束するにふさわしい前夜祭の一景であろう。
 大河川の流れる処,必ず下流々域に草原が繰り広げられていることは周知のところである。
 県下三大河川の1つ吉井川が山陽本線和気駅の近くに発達せしめたこの河川敷地は面積大約2町歩の狭少のもので岐阜県長良川,揖斐川,福岡県筑後川の河川敷利用に遠く及ばないまでも,本県においては極めて注目すべきケースであると考えられる。
 幸にして筆者は本年5月上旬酪農係松尾技師と共に現地を訪れ,石原潔氏の苦難の道を聞く機会を得たのでその見聞の大要を記し大方の士の参考に供したいと思う。


〔写真説明〕
 クローバーに覆われた吉井川河川敷

河畔に生育するのは人差指大の竹でこれが一面に繁っている。
その右手前の低地の如くみられる処は刈取直後のクローバーである。なお,大葉ギシギシが点々とクローバーに混じっている。

本県草生改良の沿革

 本県における河川敷,畦畔,堤塘等草地の草生改良事業の普及奨励に乗り出したのは全国的に早く昭和19年頃で,本格的に事業費を予算に計上し積極的な推進を始めたのは昭和22年で今日までに県下各所に延200ヶ所の草生改良指導地を指定設置し,牧草種子の無償配布と更には昭和25年度まで肥培管理費を助成したのである。
 此の間,農民の意識は高まり山野草の豊富な北部和牛地帯においても此の改良意欲は盛り上りつつある現況である。
 しかしながら,この指導地の個々について観察するときすべてが好成績を納めていることは言い切れず案外不振の地がないでもない。
 此のことは指導地の育成をめぐって,大いに検討し反省すべき問題を包蔵し,且又一朝一夕に仕上げ得ぬ事業であると痛感するのであるが反面において成功した事例も亦幾多数えられる。
 石原潔氏を中心とした和気郡益原部落民30名が取りくんだこの河川敷の改良事業は,河川酪農という最終の利用域には未だ遠き感があるにしても4ヶ年の歳月を経て草地造成という光栄ある成果を結んでおり,後顧の成功事例に値するものである。

石原氏の苦悶

 4年前の此の吉井川河川敷2町歩は,殆んど人差指大の5尺近い竹が繁り,誰1人として今日の緑なすクローバーの生育を脳裡に浮べた者はなかった。
 そうして若しも石原氏がここに改良の一石を投ずることがなかったならば,今なお人々から忘れ去られた無価値の存在にしかすぎなかったであろう。
 ところで,石原氏が何故に,人々からの批謗を予期しつつ,此の一石を投じたかというその動機に触れなければならない。
 和気郡という処は,一帯に耕地面積が少なく,郡平均耕地面積は4反3畝で県平均5反8畝を1反5畝も下回り,このため農家の生計は農業外に多くを依存し兼業農家の比率は71%で県平均51%より高いのである。
 まことに,貧困な過少農家の集団というべきであり,石原氏の経営規模とて同様に零細なものである。
 郡南の片山,伊部の工業地帯に送り出される農村余剰労働力もさほど多くは期待出来ないのである。ここにおいて石原氏は,農業収益増加の途を酪農に求めようと考え,昭和15年に乳牛の導入を単身試みたのである。
 しかるに,その結果は幾多の障害にぶつかり,特に飼料問題に悩まされ遂に昭和16年戦地へ召集と共に無念の涙のうちに乳牛を手放したのである。
 戦争,帰還,終戦というめまぐるしい世情の動きの中にあって何とかして酪農経営をうち立て経営経済を豊かにしようと氏の固い一途の念願は消え去ることなく燃え続けていたのである。遂に昭和24年再び乳牛1頭を手に入れると同時に此の河川敷1畝歩に赤クローバーの播種を試みたのである。
 出来るものなら竹を良草におきかえて飼料自給の一策にしたいという氏の構想は最初の乳牛導入の失敗を機として芽をふき出したのである。

投げられた石は波紋を画く

 竹林と目されるこの河川敷1畝歩の竹及び雑権木,雑草を8月中旬頃に刈り倒し,焼き払った後,石灰を2−3貫施用して9月中旬撒播種した赤クローバーの生育は,氏をして成功するとの確信を抱かせるに充分であった。
 ここで氏は,地元部落民に呼びかけて県の草生改良指導地の指定を受けると共に郡農業振興協議会,町役場,町農協の助成を得,同志20名と共に改良に乗り出したのであるが,しかしまだ,“狐を馬に乗せたような話ばかりして”とか“あんなことをしたってとても物になるものか,どうせ銭にゃならん”など蔭の批判は厳しく,又“石原の物ずきが何を言うことやらわかりゃせん”と地元民も気のりうすで半信半疑の態度であった。
 このため折角のクローバーの芽はつみとられ失敗に終わったのである。
 だが石原氏の1畝のクローバーは年と共に好生育をとげ,従来数時間を費やしていた草刈りは数十分に短縮され,飼料費の節約に気をよくした氏は,地元民が嘲笑を残して離反したにも不拘,益々乗り出して同氏の本家に当る石原氏と2人で26年2反歩の牧草導入を行ったのである。
 翌春のクローバーは離反した地元民の注目する処となり,ここで始めて部落民は“なるほど”と合点したのである。
 “こりゃ,やらにゃおえん”と同志30名が再度,県の指導地の指定を受け全面積に赤クローバー,ラジノクローバーを混播したのである。

石原氏は喜びにあふれて

 本年5月上旬,この牧草地に一歩を踏み入れた筆者は4月上旬1番刈りをしたというクローバーが腰のあたりまでをかくし,竹の刈株,雑草は,何処へ消えたやら全く驚喜したのである。「よくも以前の竹林がこのような美事なクローバーで覆われたものだと」
 クローバーにうずもれて語る氏の日焼けした顔には,苦難の道を歩んだ人のみに見られる喜びが一杯にあふれていた。

河川酪農の兆

 昭和24年,いや昭和15年に始めて石原氏の手によって導入された益原部落の乳牛は,昨年度有畜農家創設事業によって導入したため一躍24頭に達している。
 貧困な疲れ果てた日本農業の縮図にたとえらえるこの地区の人々の顔は明るく,河川酪農の達成も,さほど遠くはなかろう。
 この牧草地は同志30名が夫々持分を決めて管理している。
 石原氏が持つ1反2畝のクローバーは濃厚飼料なしの6ヶ月間の牛乳生産に役立っているのである。
 現在氏が繁養する乳牛 アンナインカオクヘスター号(ホルスタイン純種)は昨年12月末日第3産を分娩し最高泌乳量2斗1升で現在1斗3升程度泌乳しており和気家畜保健衛生所阿部所長は年間30石程度を見込んでいる。
 牧草地は4月上旬から10月下旬までに5回の刈取りを行い全収量約7,000貫で4月から7月中旬,8月中旬から10月一杯はこのクローバー日量25−30貫を給与し濃厚飼料には全然依存していない実情である。
 1年の半分をこの草でゆく同氏の経営はまさしく盤石の観である。
 「農民は草を取ることにのみ専心し,草を作ることを忘れている。これからは草を作ることを農民の使命とすべきである」と別離の際に語った氏の一言は車中の人となった私の頭に強く刻みこまれたのである。(宰府俤)