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畜産余聞

津下 猛

 南部馬の産地盛岡に生れた原敬氏は単に馬がすきであったと言うだけでなく,将来の政治家を目ざすだけあって明治初年既に畜産の必要性を痛感しておった。明治16年かねて閃聞しておった岡山県勝北郡長安達清風氏が全国に魁けて之の方面の行政に心血をそそいでいたため気候のよい10月を選んで態々日本原まで来たのである。
 安達清風氏は若冠江戸昌平黌に学び,幕末鳥取藩の京都留守居役を務め縦横の腕を振い世人にも知られ西園寺公が山陰鎮撫使となって,岡山県を通過した時も案内役をした程の傑物であったが,感ずるところがあって岡山県に落着いたのであるが,既に北海道札幌農学校創立者の一人クラークの薫陶を受け,開拓使に出仕して当時の新智識と言うところで維新史上にも特筆されているが,文化産業方面にも非凡の凄味を見せたのも無理もなかったのである。
 明治12年勝北部長として着任と同時に北海道時代の経験を生かして米式による機械力で開墾を初め,今日の日本原の礎地を築いたので同氏を開拓の父として地方民が仰ぐのも当然である。もっとも同地の開墾は専ら気候風土の研究をシベリヤ風に開墾すると計画を立て之に邁進したのである。
 原敬は岡山を目ざして船で兵庫県から10月19日の未明三蟠港に上陸した。当時28才の紅顔の青年で外務省御用掛と言う役名を頂いていた。20日久米郡弓削町に1泊して21日日本原に到着開墾の規模構想と周到なる対寒設備に一驚したが,その日は秀峯那岐の涼風を身に受けて安達郡長の日本原綜合開墾に心頭を傾けたのである。
 安達氏は郡内馬桑(豊並村)に渾大妨氏をして牧場を設けさせ,自身は監督役となり南部の駿馬を農商務省から払下を受けてもっていたのであるが,優良馬の粒揃いのものに違いなかった。
 日本原から鳥取街道へはアカシヤを植え,開墾地の隅々へは米国輸入の飼料木を繁茂さしていたのである。
 22日原氏は故郷の香豊かな郡長の南部馬に一鞭あてて秋風をけって東方四里の馬桑を視察したが,その広大さと完全なる牧場の出来栄えに再び郡長の腕をたたえて帰途につき津山の宿舎に入った越えて25日真庭郡勝山町見尾の池田類次郎氏経営の牧場(主として乳牛)を見て備中路から児島湾を視察して広島県へと旅路を急いだのである。

(県人事委員会管理課長)