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汽車通の記

広報課 栗坂 耕一

 蔵知技師が来て「畜産便り」に何か書けとのたっての要請である。何とか勘弁して貰い度いのが本心であるが,何しろ御機嫌を損じてこちらの本職である「広報岡山」へ畜産課が原稿を出して呉れぬ様になっては困るので止むなく引受けはしたものの,さて何を書いたら好いのやらほとほと困惑仕り申した。締切は段々せまるし致し方がないので,中学の1年から25年ばかり通学,通勤に利用した庭瀬,岡山間の汽車通の所感でも書いて責めをふさぐことにする。
 戦後庭瀬駅からの通学,通勤者の増加は驚くべきもので,朝の押しあいへしあいも大変であるが,夕方の降車も少し大げさに言えば満員で岡山を発車した列車の乗客中立って居る者は全部ゴソット庭瀬で降りて仕舞う程である。
 戦争の始まる前昭和10年前後は,まことにのんびりしたもので乗客もすくなかったが,お互にのんきなものであった。其の頃丁度午前7時半頃,庭瀬発の京都行列車があって,此の汽車は普通列車ではあったが食堂車がついていたので何んのきっかけからか私は毎朝食堂車に乗るくせがついて仕舞った。庭瀬,岡山の所要時間約10分,食堂車の女の子の顔を眺めつつ1杯10銭のコーヒーを飲みながら岡山へ着くのは仲々によきものであったが,残念ながら戦争の激化と共に食堂車の連結がやまって此の楽みが失われた。戦後国鉄の,サービスも次第に復旧して「かもめ」などと言う豪華な山陽特急も走る様になったのであるが,もう一とふんばりして通勤列車に1本位い食堂車の連結を国鉄当局に望み度い。
 戦争前は極く手軽に飲めるところがあり,四,五十円の月給でも殆んど毎晩の様に好い機嫌で帰れたものであるか,元来私は酔うと直ぐ眠むるくせがあって,伯備線で高梁まで乗り過ごしたり,午後11時頃ついふらふらと乗った下り列車が運悪く急行で,倉敷辺で目はさめたもののどうにもしようがなくあれよあれよで福山まで連れて行かれたり,汽車につながる若い日の失敗は多い。私の乗越レコードは福山までであるが,友人の県庁某課長は倉敷で下車するのに目がさめたら汽車は広島県の八本松だったと言うから,上には上があるものと感心している。
 近年健康を損ねて酒を止めたので語るべき失敗談もなく,アプレゲールのアンチャンやお嬢さんにもまれながら,きまった汽車で通勤帰宅するのは些かあじけなき感を禁じ得ぬものがある。