ホーム岡山畜産便り > 復刻版 岡山畜産便り昭和28年8月号 > 夏三題

夏三題

杜陵 胖

『衣』

 今年の夏は洋服を着てチャンとネクタイを締めた人が多くなって来た。次第に昔に還って来た様である。白服に蝶ネクタイに白靴と如何にも涼しそうな服装がボツボツ目立って来た。
 終戦後日本人の服装は一時大混乱を来した,いや戦時中からかもしれない。戦時中はそれでもまだ国防色に統一されていたので良かったが,終戦後は全く世相と同様に混乱の時代であった。洋服を着てネクタイを締めている人間は薬にしたくも見られなかった。それが世間が治まり,安定して来ると服装迄キチンとして来るから不思議なものである。今年は都会になる程ノータイシャツが売れなくなったそうである。然し県庁へ来る連中は相変らず白シャツノータイが多い様である。南方帰りの連中は未だに防暑服とか称するカーキ色のシャツに半ズボンでやっている。どうもこれは華やかなりし過去の思い出と共になかなか捨て去り難いものであるらしい。こんな連中に限って夏は日本特有の気候的条件を考慮に入れて,日本流の洋服を考えるべきであるとおっしゃる。なる程,考えてみればこれも一理屈あるわけである。戦時中は英米流と称してネクタイ迄排斥したものであるが,洋服とネクタイはどうも付き物の様であって,ネクタイなしに上衣だけ着ている姿はあまり感心したものではない。暑い時でもネクタイを締めてキチンと上衣を着ている人を見るのは気持ちのいいものであるが,然し流汗を拭き拭きやっている姿は如何にも暑そうである。そうまでして汗をかく必要があるのか知らんと思う。何か猿真似に近いものを感じる。湿気の多い,特有な暑さの日本では,何か夏だけでも日本特有な服装があってもいい様な気もする。
 あのお上品で通った英国の軍人も,彼等が日本に居る間は全く植民地征服的根性を起して裸で大椅子にふんぞり反って,風呂屋で見掛ける様な大きな団扇を天井につるし傲然と紐を引いている姿を見せつけられたが,彼等でも日本に来ている間は英国流にはやれないのである。彼等は行く先々の気候に合う様に服装を代えているのである。それなのに暑い日本に育った吾々が,なんぼ欧米流がよいからと言って暑い時迄頸を締る真似をする必要は無い様に思うのである。となると何か夏だけの日本特有の服装があってもよい様な気もするのである。そうなるとシンガポールで作り出した半袖に半ズボンの服装は日本にそのまま取り入れられてもいい様な気がする。
 然し考えてみれば昔の人は実にこの点ははっきりしていた様である。吾々の育った家は格別厳格で,夏でも絶体に裸にさせて貰えず,ちゃんと着物を着せられて居ったものである。姉なんか遂にこの習慣がついてしまって,死ぬ迄簡単着と言うかアッパッパーと言うかあのワンピースの出来そこないの様なものを着なかった様である。親父も晩年は湯上りには時々裸で庭の水撒きをしていたが,外へ出る時は必ずネクタイを締めていたものである。それが吾々の時代になるとその反動と時代の流れで,子供達には裸を奨励して,大いに裸礼讃をやっている。これも時世だと言ってしまえばそれだけかも知れない。
 夏になると長いズボンをはいた男は御婦人のスカートを見て,女は涼しいだろうと言い,女は男の裸を見て,男に産れなくて損をしたと言う。こうなると「よくぞ男に産れけり」と言うことになる。これも古い観方かも知れない。
 どうもこう煎じ詰めて来ると夏は衣装もいらなくなって来る。と言って裸で道中も出来ないとすれば,夏向きの服装が出来なければ嘘の様な気がする。開襟シャツに半ズボンで天下御免と罷り通れる様にはならないものか。尤も気兼ねをしているのはお前だけだと言われればそれ迄である。然し次第に昔に還りつつある町の姿を眺めるとボツボツ心配になって来た。だがそんな事を考えるから頭が古いと言われれば,ヘイ,と言って下るだけである。

『食』

 夏の食はどうも気候のせいで淡泊なものになり易い。冷やむぎ,冷そうめん,冷うどん,冷やっことあっさり片付けてしまう。暑いと食うのも大儀になるし,食欲も無くなるからである。夏痩と言う言葉がある。こんな淡泊なものを少しばかり申訳的に食って一人前の仕事をして居れば痩せるのは当然である。尤も暑い時には痩せた方が楽な人もあるかも知れないから,夏痩も人によりけりである。吾々の様な痩せっぼちはこの上痩せようとすれば骨が突張って痩せられないかも知れないけれど,然し台所奉行にとっては大分助かるらしい。麺類なら特別お菜がいるわけではないし,手間も省けるので人の痩せることは知らない振りをして大賛成で連日麺類とパンの総攻撃である。
 昔の人は誰が言い出したかよく考えたもので,夏の栄養補給に土用のうなぎを持ち出したり,天ぷらを食わせたりしている。牛肉も食ったらしいが佛教徒が四つ足を忌避し出すと丑の日と鰻とを結びつけて,牛肉の代用に鰻を喰べさせている。こうすれば夏痩も一寸は防げることになる。理屈は知らなくても理に合ったやり方をしているのが昔の人の行いである。知ったかぶりの若い者は足元へも寄りつけないことである。
 夏になると毎年決った様に牛乳の消費量が増加する。今年も今から牛乳の争奪戦で大変な騒ぎである。飲用乳の他にアイスクリームや他の飲物に加工されるらしい。栄養の補給と食欲増進ともう一つ米の節約が狙いなら結構であるがどうも少しはピンボケの様でもある。然し何にしても牛乳が多量に消費され,うれしい悲鳴を上げることは結構なことである。夏だけに終らないで年中牛乳を飲む人間になりたいものである。

『住』

 起きて半畳,寝て一畳が人間の最低の必要場所であってそれ以上は贅沢であると言う人があるかも知れないが,然し暑い時は誰でも少しでも広い家で風通しのよい処が望まれる。開放的になって来ると隠れ場所もない様な家は一寸困ったものである。そうかと言って建て込んで来るとますます風通しが悪くなるので始末が悪い。これは備前の夕凪が加わって来るとどうにも辛抱出来なくなって来る。
 岡山名物の一畳台の夕涼みが軒を並べて始まるのも無理はないと言うことになって来る。勿論これも住の一部と考えている人間が多いらしく,通行人の迷惑なんか誰も考えないし,通る方も大して気にもしていないらしい。然し気の弱い連中や花嫁さんとか人気者とか時の話題の主達は相当閉口するらしい。時には下手な将棋がさされたり,町の話題や煙火が飛び出して来るとすれば,これも夏の住としてまんざら捨てたものでもなさそうである。
 何処の町にも大てい1軒や2軒位は途法も無い大きな家があるが,こんな家は入口に立っただけでもヒヤリとして涼しさを憶えるものである。こんな家は吾々庶民には関係は無いかも知れないが,然し何んにも知らない吾々でも矢張り古い日本の建築物の優秀性を認めざるを得ないことになって来る。特に田舎の草屋根(藁屋根)なんかは実によく日本の気候的特徴を捕らえたもので,夏は涼しく,冬は暖かで理想的であるが,これも防火の見地より許可されなくなって来たが,然し捨て難い郷愁を感ずる。
 近頃のどっちつかずの安請負でも何んとか暮らしよい様に工夫が必要になって来たようである。日本の気候的条件を考え,住み易い,使い勝手のよい小じんまりとした家がほしいものである。
 戦災で家を失った吾々安サラリーマンにはなかなか自分の家は建たないが,あれか,これか,ああでもない,こうでもないと頭の中で設計して,こんな家に住みたいものだと願うのも結構楽しみなものである。
 それにしても木陰の多い広い庭に苔の生えた踏石があり,水でも打って,すだれに風鈴の音でも聞くと言う日本古来の建物も夏の涼しさを呼ぶには無くてならぬものである。こんな落ち着いた家もまだ全国には数多いことであろう。
 こんな家は新らしい建築様式を相入れない処があるかも知れないが,ここにも亦日本式な新らしい様式が生れて来てもよさそうな気がして来る。