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酪農列車

 此処は岡山駅の5番ホームである。急行列車デーリー号が静かに発車を待っている。この列車は岡山で編成されたのであるが,なかなかの豪華版である。県民待望の列車であっただけに一同の関心も高いものか,見物人も黒山の様にたかってその発車を待っている。
 車内には最早相当数の乗客がある。聞いてみれば大変な話である。この列車に乗る為に並々ならぬ苦労をしてやっと乗り込んだ処でまあまあやっと席にあり着いたとホットしている処であった。遠い路を一人で歩いて来た者や,家族連れの者もあれば,中には団体でにぎやかにやっている処もある。然し皆楽しそうに笑顔で話し合っている。この列車に乗る人達だけあって皆裕富そうである。落ち着いてみれば話の種はつきないものらしくお互に過去の苦労話等はおくびにも出さず,皆愉快な話ばかりである。同じ列車に乗り合せてみれば,各々姿は違っても行く先は同じなので話題も行く先々のことが多い様である。然し独りで来た者は何んとなく苦労話が多いらしく,あちらで3人,こちらで5人と話し合っているのに,家族連れや,団体客は大はしゃぎである。列車内の団体は特に賑やかなものであるが,この列車内でも御多分に洩れず団体客は楽しそうに騒いでいる。
 この列車は終着駅では10両編成になる予定であるが,出発駅では5両編成であり,各車両に世話人迄乗り込んで,乗客に対して万全のサーヴィスをやっている。全く到れり尽せりであって酪農列車の面目を如何なく発揮している。
 ところがこの列車の発車が近づいて来ると,今迄見物していた連中の中にも乗ってみたい者が出て来て1人乗り,2人乗りし始めた。そうなると群集心理と言うか,人に遅れたくないと言うのか,吾も我もと乗り始めた。こんなに乗客があるとは思っていなかったので,当初は5両編成でゆっくりと思っていたが,さて発表してみるとこの騒ぎで大変である。その上に各車両に1人宛の世話人を置いてサーヴィスをやらしておいたのに,何時の間にかこの間にもう一人世話人が入って来て,各車両を廻って大サーヴィスをやり出したので,列車の内部迄大混乱を起こしてしまった。最初から乗っていた連中の中にもそっちの方へ行く者も出来るし,同じ車両の中で2組に分れて騒ぐ者が出来たり,いやはや大変な事になってしまった。同じサーヴィスをやってくれるなら自分の車両を編成してその中でやってくれればよいのに他の世話人の車両でサーヴィスをやってくれるのでこんな混乱が起ったのである。その上見物人迄がこれに加わったので騒ぎはますます大きくなってしまった。
 列車が発車間近になっても乗客の列はまだ続いている。御多分に洩れず,混んでいるとは言え中の方は割合すいているのに入口の方は芋の子を洗う様に大混雑である。中には手すりにさばってヤンヤン言っている連中もある。なかなか大変な列車になってしまった。
 その内に列車は発車となった。入口の連中はどうにかつかまっては居るが足の方は全くお留守で一寸大きな振動でも来ればすぐ落とされることは判っているので見ている方でも楽ではない。列車の中も世話人同志の争いでお客こそいい迷惑であり,一寸も落ち着いていない。それでも車両によっては皆一緒になって愉快にやっている所もある。
 とにかく列車は発車してしまったのである。今更後へ引返すわけにはいかなくなった。そうなると列車を安全運転しなければならない。後から乗ったお客も先のお客ももっとゆずり合ってこれからの旅を楽しくやらなければならない。入口のお客が一人でも落ちたら大変である。その為めにはもっと足場を固めさせることが大切である。足がしっかり立ちさえすれば落ちることもない。中のお客はもっと奥へのって自分も安全になり,入口のお客も安全になるようにしてやらなければならない筈である。まあ然しこの列車のお客は偉い人ばかりだからそんな心配はお客自身がすることであろうからお客にまかせておくか。
 この列車滑り出しはともかく順調であった。次の駅で一両継いで又そこからも乗客が増えると思うが,終着駅では10両満員の列車であるように祈るものである。
 岡山駅の見物人の中にはこの列車の様子をみてとかくに批判をしていた人も居たし,自分のお客をとられた様な気分で悪口を言っていた人もあった。又別な人はあまり込み合うので事故でも起さなければよいがと心配している人もあった。
 何にしてもこの列車は一応出発してしまった。出発してから種々とこの列車の聞き合せが来るが,乗り遅れた人も次の駅迄別の方法で行って貰って,次の駅で乗って貰えばよいわけである。
 たった1本のこの列車がこれ程大騒ぎを起すとは夢にも思わなかった。後はただ安全到着を待つのみであって,吾々は安全運転のために全力を注げばよいわけである。(胖)