ホーム岡山畜産便り > 復刻版 岡山畜産便り昭和30年6月号 > “忙中閑あり”

“忙中閑あり”

社陵 胖

 “忙しい”と言う言葉程便利なものはない。この頃はどうも世の中が忙しくなったのか,気分が落ち着かなくなったのか,人が会えば挨拶に先ずこの言葉が出て来る。「お忙しいでしょう」とか“どうも忙しいので”とか,なかなか使い分けによっては便利な言葉である。忙しくなくても「お忙しいでしょう」と言われれば何だかそんな風にしなければ悪い様な気がするし,そう言われると自分迄その気になって「どうも忙しくて困ります」なんて言っている。そのくせ「お忙しいでしょう」と言ってくれた人間に限って案外落ち着いたもので人の迷惑なんかそっちのけにしてゆうゆうと話込むのである。「どうも忙しくて困ります」と返事をした手前忙しそうな恰好をしてみても,とんと反応はない。もともとそんな恰好をすることが不自然なので,お相手をして悠々とやればよさそうなものであるが,一度忙しいと言ってしまうと気分的にどうも忙しくなって,何か落ち着かないものである。
 御無沙汰の言いわけが又決って「どうも忙しいので」である。どんなに忙しくても,自分さえその気になれば時間は作られるものである。
 時間が無いのは,その気にならないから無いのであって,気が向かないことは,時間を作らないことである。忙しいために時間がとれないと言うことはうそである。それなのに「どうも忙しいので」と平気でごま化している。それが又奇妙に通るから世の中は良くしたものである。そうしてみると世の中の人は皆同じ様なことを,同じ様な気持ちで言っていることにもなるわけである。
 物を頼まれると「どうも忙しいので」と逃げる。頼む方も「お忙しいでしょうが一つ」と前置きをして話す。お忙しいことが判っているのなら無理にそんなに頼まなくてもよさそうに思うのに,そう言う人に限ってお忙しい人にお忙しいことを頼むものである。頼まれた方も心得たもので「どうも忙しいのでつい……」と言っておけばそれで当分は逃げられるのである。これでは何だかお義理に物を言っている様で変なものになって来るがでもそれが通る世の中だから世間と言うものは面白いものである。
 呑気そうに机に座って新聞を読んだり,雑談をして居り乍ら,電話でも掛って来ると,とたんに「どうも忙しくてやりきれん」である。見えないから良い様なものの,これがテレビで相手の様子が写ったらさぞ面白いことだろうと思うと独りでおかしくなって来る。
 時間から時間迄,時間に制限されて仕事をし,その上残業をし,日曜日は又別な仕事が待っていて年中閑なく活動していると何となく忙しい様な気がする。たまに休日などで何処にも行かないで家の中にじっとしていると何だか拍子抜けがして変な気持ちになる。そうしてみると時間から時間迄活動していることと,時間に縛られていることは,例えその間働いていなくても気分的には忙しいと言うことになるのかも知れない。
 日本と言う国はどうしてこう忙しいのかと言うことは今度3ヵ月ばかり外を歩いて来て一応日本から隔離されてみて始めてその理由が判った様な気がする。
 吾々の乗った船が横浜の港外に入ったのは夕方であったのでその夜は検疫が済まないので港外に一泊したわけである。ところがその夜小艇でやって来て,船から綱を下して貰って,それを登って来たのは一升瓶をさげ生花を持って注文を取りに来た八百屋さんであった。翌朝になると沖仲士が続々とやって来て,検疫が終ると同時にハッチを開き,クレンを準備して荷の積下しを待っているのである。そしてブイにふねを繋ぐと同時に積下しを開始し,機械を一寸も休ませないで,一週間も掛って積み込んだ荷物を1日で積下してしまって船の追い出しである。こんなに迄働かなければ仕事が貰えないのである。生存競争に負けるのである。日本って国は何んとせち辛い国か知らんと思うと同時に,何んて忙しい国なんだろうと感心したわけである。
 吾々の「お忙しいですか」と言うことは最早挨拶の常用語になってしまい、丁度大阪人が「儲かりまっか」と言うのと同じである。この言葉を聞くとそうでなくてもつい気分がいらいらして来てしまって全く落ち着きがなくなってしまう。
 もっと何とか気分を落ち着かせる様な言葉は生れないものか知らん。
 とは言ってみたものの,この忙しそうな世の中で,こんな呑気な駄文を書いている人間もあるのだから,人間の忙しいと言うこともあてにはならないことになる。