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蝶の見えぬ春

広報課 栗坂耕一

 合オーバーを出したり仕舞ったりで,些か変調だった今年の春も,月がかわると共に,所謂風薫る5月,爽かな新緑の山野を迎えました。
私は郊外から通勤して居りますが,菜の花の咲き乱れた田舎道を朝晩通りながら,今年の春は何か足らぬものがある様な気がしてなりませんでした。そして或る朝ふと思い出しのは,今年はその咲き乱れた菜の花にたわむれる蝶の見当たらぬことでした。それから毎日気をつけて来ましたが,今日迄とうとう蝶々の姿をまだ1匹も見ません。勿論朝夕の通りすがりに気をつけるだけで日中の様子を知りませんので,日盛りには多少蝶の姿も見えるのでしょう。人に聞いて見ましたところ今年も飛んでいるのを見たと言って居ります。
併し昔に比べて数が非常に少くなったことは確かな様です。
蝶が植物の交配にどれ程の役割を果たすものか詳しく知りませんが,そう言う効用的な意味でなしに,たんぽぽや菜の花の咲く野道に春の景物である蝶々の居らぬことは何となしに物足らぬ感を覚えざるを得ません。
デフレ下の就職難時代に,食うや食わずの人間が―勿論私もその中の一人ですが―ひしめいて,居る時代に,蝶々が居ろうが居るまいがそんなことは大したことはないと言えばそれまでで,勿論大したことでもありますまい。
併し私は思うのですが,六三製の新教育が再批判され,青少年問題が世論の焦点となって居る今日,少々大げさに言うならば幼少年期に於ける情操陶治の面で蝶の居らぬことは,考え方によっては悲しいことでありますまいか。幼い日を田舎に育った者なら誰でも蝶やとんぼを追った楽しい日を持った筈です。人間としての豊な情操養うために,それがどれ程の役割をしたかはわかりませんが,すくなくともうるおいのある心を養うために或る程度の役には立った筈でしょう。
敗戦後,環境の変化や生活の苦しさからお互い,我々の気持ちが非常にガツガツした。我ながらに浅ましい心に成り下りましたが,10年を経た今日,もうそろそろ新しい民族の倫理観が確立してもよい頃と思います。特にこれから伸びる青少年には,功利にコセツかぬ,おうらかなそして毅然とした世代の気風が望ましいものであります。若い世代にそうした風格を作るために,特に蝶が役に立つこともないかも知れませんが,季節の景物は矢張りないよりはあった方が好いではないか,という意味で今年の春何気なしに気付いたことを敢てこじつけて見た次第です。