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酷暑にいどむ 色の黒さの初めと終り

かもと生

 久し振りにさる北部の村長さんに出会ったとたんに「何と黒くなりましたなあー!」と感嘆されて,思い出したように鏡に向って眺むれば成る程,前後のアヤも分らない程のやけ具合。我乍らニタニタとはしたもののこの黒さには想い起せば数々の,語るも涙のエピソード?があろうと言うものである。
 扨てそもそもの由来記は,
私の母が実家でお産をした時……私を生んだ時……それは今を去る40年ちょっと前のことであった。産湯をつかって「オギャア」と泣いたとたん。それをじっと見つめていたおじいさんが破顔一声,「ホウ,何て色の黒い子だのう!」と感極ったようにつぶやいた後でそれでも「でも元気そうでいいわい!」とつけ足してくれた。これが私の陽の目をみて陽にやけた?始りである。
 それ以来、私は家の中に飯時と寝る以外,野に山に川にと蝉を追い雑魚をすくって野性的に大きくなったものである。
 やや長ずるに及んでスポーツに馴れ染め,駈っこ,すもう,と何でもござれの腕白小僧となり,テニスをやり出し剣道もやっておしまいに野球に取り組み出したのである。
 中学時代はオヤヂに叱られ,オフクロには泣かれ乍らも野球の面白さに取りつかれ,ロクロク勉強もしなかったことがてきめん,今日現在のなれの果てとなった遠因である。
 それでも中学5年の時,私がキャプテンでやっとのことであこがれの甲子園出場の栄冠をかち得たのである。
 一生の中で然も今既に歳は下り坂に向っては今一とたび,こうした感激は有り得ないとその当時の様々の想い出は終生忘れ得ないものがあるが……この話は本文の趣旨でないので割愛したい。
 かくて野球ボケした田舎の中学生は何しよう,都会の鋭角的な頭脳と争われよう。ようやく諸々の凡才(之は失礼)に伍してやれ,ヴァーテブラ(脊椎),カブット(突起),だとかホラーメン(推孔)と所謂馬の骨に取つ組む哀れさに運命づけられた。
 以来坦々として好むと好まざるとに限らず糊口をしのぐ為にも私の畜産技術屋としての道を歩んできたのである。それはそれは長い道のりだった。まだこれからどこまで続くか、里程表がないので分からないが,芋虫の歩みのように行くことであろう。
 ところがである。機会は再び私に生気を取りもどさしてくれたのである。それは長い間忘れ去っていた野生の気魂である。
 炎熱が誘う,中学や高校のたくましい情熱に呼び起され,及ばぬものとは知り乍らも再び若い人達と野球に打ちこみ出したのである。と言っても庁内のリクリエーションとしての対抗試合ではあるが……3年前より春から夏ともなれば足腰を伸ばして這い廻り出したのである。
 やり出せば勿論,スポーツと雖も勝負の世界である。勝利の前には練磨と精進がなければならない。そして団結したチームワークが絶対に必要である。
 初年は優勝戦に破れ,2年目は準決勝で負け無念やる方なかったが石の上にも3年の諺通り,今年こそは何としてもと言う闘志は全課員の熱烈な後援に応えて盛り上ってきた。
 練習を見た人が「チト可愛そうだよ」とたしなめて頂く程に,亦私自身も行き過ぎかな…と反省し乍らもたとえどんなに苦しかろうと宿望を遂げた時の感激の前には何物でもないと,強く,時には酷な程若い人達に精進を求めた。それが甲斐あった。堂々と優勝したのである。その時のビールの味は曽つての如何なるきよう冥にも及ぶものがなかった。
 余恵がある。おかげで私の年令は逆戻りして10年程訂正して貰う必要が生じてきた。
 その代り余りにも明瞭に刻印されたのは黒さである。私の表皮細胞のメラニン色素はよう捨なく鋭敏な反応を示し,恰かも私の闘魂に応える如くドシドシ増量されてきたものである。
 上品な席にはチョット面はゆい気がないでもなく,思い余ってさる化粧品売場を訪づれ,「何と陽やけ止めのクリームないか」と注文したら「マア!貴方が!」と私を見つめてホロホロと笑いこけたきりテンデ取り合うてくれなかったのは誠に残念至極。栄冠のかげには涙ありと思召して頂き度い。
 之が私の黒さの終りであろう。

(30.7.30)