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トハーツ号の運転

宰府 俤

 くだらないことだと思いながらも,いくらかニュースバリューがありわせぬかと書き記してみることにした。しかし

 ニュースというものは生のもの,時の経過と共に陳腐となれば一文の価値もないことは承知している。陳腐なるものが或はこのトハーツ号かも知れない。

 これは原動機付自転車を単に自転車と片付けてもらったのでは些か張合いがなくなる。勿論,昨今はオートバイの普及が目覚ましく原動機付などは問題にされていない。筆者の住む岡山市近郊の田舎でさえも,月に1回位の帰省の度に軽二輪が増えているような気がする。自転車にとってかわっている様な世の中だから,原動機付自転車だなどと言えば笑止千万のタワゴトかも知れない。

 ともあれこの原動機付自転車には2種類ある。ここで話題にのせているトハーツ号というのは第2種に属する内燃機関の総排気量が123㏄の自転車とは絶縁した容姿のものである。笑われながらここまで書かぬと矢張り後文とのつながりが悪い。

 自分自身で時に思うことなのだが,というのはおそらく此の地に来て仕事上止むを得ずの立場から原動機付自転車がどうであるとか,或はオートバイに乗った方が調子がよいなどと言い得るわけで,そうでなければ原動機付自転車とて無縁の存在であったということである。あとでものべるけれどある事情でことさらに自動する車には近よらぬことにしていたからこの感一入である。

 5ヵ町村の広範囲な地域に導入されたジャージー牛を相手の仕事には,所謂自転車では

非能率であろうかということで今年4月当保健所に配置されたのである。

 爾来5ヵ月を経過し,どうにか人様に笑われぬように運転の出来だした今日では冒頭にのべた如く陳腐な事象にしかすぎぬかも知れない。

 最初は第一種の原動機付自転車だろうと思っていたのだが,N所長が愛用の「キャプトン号」をこの玩具に等しい=少くともN所長にしてみれば玩具以下の厄介物であったようだ=乗物に乗り替えて遠路岡山から輿入れしたときには想像以上の大物で驚異したのである。

 元来,自転車でさえも敬遠すべき現象の多発する身であってみれば,まして雨が降れば水路ともなり岩石の突出した道路が多い地域故に,この様な乗物を身に具して日々はさぞ多難なるべしと思うこと少なからず,妙な心持であった。

 聞けば4月1日から運転のテストを受けなければならぬようになった由で,いささかたじたじという処であった。考えてみれば,自分が乗り自分で運転するのであるからテストの如何は問題にすべきではないのだけれど,試験という雰囲気を年来の習慣から嫌悪し,幾日かは試験という窮屈な意識のもとで暮らさなければならず,更には試験を受けなくてもよかった時期があったことに対する不平等がおりまぜての感情がその一瞬たじたじさせたわけであろうか。

 何事も始めてのことは,ぎこちないもので昨今,他人の初歩運転者の姿で当時の己れの恰好を想像すると全く穴に入りたいような気がしてならない。

 交通取りしまりの警官には甚だ申訳ないことであったが要所をさけて専ら二川村との悪道路で巡回兼練習を行い時に山中を往来する郵便配達人をおそれるなどして,ようやく運転許可と成り,当今では警官を探し求めて蒜山特有の土煙をあびている。

 某日,K技師がはるばる当地を訪れての際たまたま二川村からの帰途偶会しK技師しばらく無言,おもむろに口を開いて語るに「君は何時からかかるものに乗れるようになったのか」と,一事が万事この調子で如何にも愚生の運動神経が鈍感であるかの如く認識している士が多い。

 K氏との久方の快談にバッカスがおどり,酔して家路をたどる節,同乗で夜闇をつけば,彼の白昼の言辞風の如く消え去った。

 かつて,ある出来事の発生から己れの身を防衛するべく自動する車から遠のき,

そのために運動神経の鈍であるが如くに解されていたけれど,今日酔すればとかく車の速力の急なるを求める欲望にかられる。

 仄聞するに愚生の身の今なお健在であるを不思議に思う一部の士がある。………と

 思えばかかる人こそ,同じ欲望にかられる人々であり,共に生命の尊さを知る隣人である。