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岡山県獣医畜産学会 研究発表特集

(6)牛の創傷性心嚢炎に於ける胸腔切解手術

岡山県農業共済組合連合会勝田支部 井上 皎

まえがき

 牛の創傷性第二胃横隔膜炎及び心嚢炎は当中国地方の畜牛産地に於ては発生頻度が高く且つ又農家の蒙る損害も大でありましたが,近年第一胃切解手術が一般臨床家の日常手術として普及実施され,前者の第二胃横隔膜炎の域に於ては殆んど手術によって治癒可能となって参りました。然し乍ら金属異物等が既に心嚢或は心筋に達して組織の化膿壊死を起して居た場合予後不良として廃用処分を行って居りました,此の点創傷性心嚢炎を屠場に於て剖検する度毎に何とかならぬものか今迄絶対施す術無しとして放棄して居た本病を外科的に救う途を啓き度いと兼ねてより切望致して居りましたが、かかる病例が発症致しましても何分我が農村では,この様な未知の手術の承諾を得難い場合が多く,又自信も乏しくお流れになって居ました。ところが斯界の先導者である宮沢正憲氏の開胸手術治験例に勇気を得,2頭の心嚢炎について手術を実施する機会に恵まれました。

 此の試験的手術は勝田郡畜連安東,小坂技師,北部酪農協同組合野上,渡辺技師と共同で行ったものでありますが,これらは結局制腐処置の不完全から失敗を招きました。

 併し乍らこの失敗の中に皆様方に何等かの参考となり,又これを克服して成功に導く原動力となるものが芽生えて来ますれば幸であると存じます。

経過と処置

 本例は4才の乳牛で高等登録受験中であり乳量日量1斗8升−2斗を泌乳して居り,管理並に栄養非常によく本郡の最高牛と目されて居たものでありますが,8月8日より変状を認め,習19日安東,野上,渡辺井上共診の結果心嚢炎と断定,然も一両日中に死亡するものと診断し,正に死に頻して居る為,生きている中に廃用にするか,或は兼ねてより希望して居た胸腔切解手術を試みるかにつき協議しましたが,幸い畜主の承諾を得たので手術に着手致しました。

 先ず厩舎内に枠を作り,起立保定を為し左肋部第六,第七肋骨上を巾約20cm長さ70cmの剃毛を行い,肩胛骨の中点の線を上端として肋軟骨部に至る線で第七肋骨前縁を約50cm切皮しました。次に最大皮筋及び大胸筋を鋭性切解し,内外肋間筋に包まれた肋骨部を露出し,先ず内外肋間筋を下端肋軟骨接続部より上方へ約5cm分離切除しました。これまでの手術は血管が多く第一胃切解に比して相当多量の出血を見ました。次に第六,第七肋骨を骨膜剥離子を用いて剥離しましたが,患牛はこの手術を通じて一番苦痛を感じ遂に横臥しましたので,横臥保定に切り換えて第六,第七肋骨を,下端は肋軟骨部をメスにて切断,上端はそれより25cmの処で手術用鋸で切断致しました,続いて薄い横肋筋を鈍性切解し,炎症著明な肋膜を鋏で約20cm切解致しますと,肺が猛烈な勢で飛び出し,それと同時に呼吸困難となり心音不鮮明で結滞を起し苦悶を始め,切迫屠殺を何時行はうかと気をもませた程でしたが,肺を手で胸腔内に押し込み暫く様子を見て居ますと平静を取り戻しましたので肺を上方に押し上げ横隔膜及び心嚢を露出すると,胸腔内は悪臭のある丁度娩髄停滞時の悪臭腐敗液と同様の腐敗滲出液が約5リットル位渚溜し,周囲組織は黄変し,横隔膜及び心嚢の一部は完全に壊死に陥入って居りました。で先ず腐敗滲出液を注射器で除去し,横隔膜と心嚢を出来るだけ分離し,壊死組織を剥離除去し,更に心嚢に穴をあけました処腐敗臭あるいは嚢液が膿汁を混えて漏出しました。これをダム管にて吸引排泄しました。その時までP120130あり結滞して居た心臓は急に6070位となり確実な脈を打ち始めたのには驚きました。

 心嚢は茄皮状態になり完全に壊死を起しては鼻向きならぬ悪臭があるので出来るだけ分離切除し,健康組織面を出しました,然し乍ら処々探索しましたが心膜の周囲に於ては遂に異物を発見する事が出来ず,時間も約5時間を経過しましたので,リンゲル液にて胸腔内が無臭となるまで洗浄し消毒後色素剤を塗布し肋膜,筋肉,皮膚の縫合を為し排膿管としてゴム管を装着しました。

 その後経過よく採食し始めP8090T39℃−39.5℃となりましたが胸腔内より悪臭腐敗液が絶え間なく排出し,これを防止する為生食にて充分洗浄を繰返し,色素剤,抗生物質等にて制腐処置を為すという処置を毎日繰返しましたが,食欲及び一般状態は洗浄良好となり時を経るに従い悪化するといった経過を繰返す事9日,遂に畜主も何とか処分する様申し出ましたので患畜を引きとり治療続行しました,然し乍ら依然として好転せず悪臭腐敗液を排出し且つ衰弱が加わるので遂に断念し術後14日目に至り廃用処分を為し胸腔内の経過を観察し爾後の手術の参考に供する事にしました。

剖検

 左肋膜,心嚢心筋,横隔膜,左肺総て一塊となり癒着し,所々壊死化膿,特に左肺はその機能を完全に失って居り,よくこれまで生而も歩行し採食までして居たものだという一種の驚愕を感じました,左胸腔部がかかる変状を呈して居るにも抱らず,右胸腔部は全然変化無く縦隔膜にて完全に守られて居ました。

 尚一番の関心事である異物は遂に発見出来ず,唯第二胃内に遊離した針金20cm1釘5本,針2本,計8個の異物を認めたのみであります。

むすび

 以上の事を考察しまして次の収穫を得たのであります,即ち

患畜は心膊結滞し正に死に頻して居たにも拘らず約6時間の手荒い無暴とまで思われる手術に耐えたのみならず,手術直後より非常に良い兆候を現し,2週間後殺処分を為す迄生き長えたという事であり,相当余裕を以って手術が行える事を立証致しました。

 尚本手術の後に行った第二例に於ては心嚢に刺入した木綿針を除去し約2時間にて手術を完了した事を附言致して置きます。

 尚失敗の原因として考えられる事は

(1)手術の環境であります,術後良好の経過を辿り乍ら,3,4日後発熱し胸腔内が腐敗化膿したという事は手術時細菌感染したという事が言える訳で,事実6時間に及ぶ手術中,物珍しさも手伝い大人数の者が取囲み厩舎内の敷藁及衣服等の塵埃を立て,種々雑多な細菌を胸腔内に撒布した事になります,故に今後は屋外で而も限られた人数を以って完全消毒の元におこなわねばならなぬと思います。

(2)第2に考えられる事は壊死組織の完全除去であります。最初の事でもあり徹底的な壊死部の除去が出来て居なかった為術後これらの遺残壊死組織を中心として細菌の再繁殖を促したものと思われます。

(3)第3に考えられる事は術後再び細菌の侵入する途が残って居たという事であります。即ち排膿管の問題でありますが,胸腔内に通じた排膿管であります為に呼吸に倶い,外界の汚染空気を吸引する結果となり,日々の洗浄消毒処置後も絶えず細菌が侵入したものと思われます。今後は手術時の消毒を完全にし,排膿管を装着せずして奨液の滲出は生物自体の進行性変化により吸収治癒に至らしめる様にし尚己むを得ざる場合は,胸腔穿刺により奨液の排泄なり薬液注入をする事が良いと思われるのであります。

(4)最後に本例は症状が非常に進展して居り諸臓器が極度に変化を起して居たのでありますが,今後畜主の理解と早期診断,早期手術により,極く初期に手術を行い得るならば簡単に処置出来,必ずしも失敗に陥入るとばかり言えないと思われます,尚今後吾々がスクラムを組みお互の胸襟を開いて研究してゆくならば,心嚢炎何ぞ恐るべしの時期が近き将来必ずや到来すると思います。未だ経験不充分で而も基礎的研究も未熟の為,誠に不完全な体験を皆様に発表する結果となりました事を御詫び致しまして発表を終らせて戴きます。