既刊の紹介岡山県畜産史

第1編 総論

第1章 旧藩時代までの畜産の概要

第5節 牛馬の奨励施策

1 牛馬の飼育奨励

 江戸時代幕府は,農業の保護を重視した。明治,大正時代までの牛馬耕と堆厩肥時代のわが国農業の基礎は,この時代に培養されたものである。
 幕府は,慶長19年(1614)嶺岡牧場を直轄とし,享保14年(1729)これを整備した。(この牧場は,明治元年(1868)官有となり,翌2年(1869)皇室の御料牧場となった。)
幕府は,諸藩の馬産,とくに藩直営の馬牧の創設については,これを届出制として牽制したが,農用牛馬とくに牛については,その飼養を積極的に奨励した。
 諸藩においても,牛銀の貸付制度を,おもな施策とし,また,藩有林野の農民への開放などを行った。  

2 牛の増殖対策

 牛銀の貸付をおもな施策としていたが,岡山藩では,宝永3年(1706),百姓の持牛の少ない上道郡中尾村(現岡山市)へ牛銀貸付の代わりに牛の現物7頭を貸付している。岡山藩では文武のころ(1818〜29)興除新田の農民が,領主から無利子10年賦の牛銀を借用している。
このように牛銀による牛の購入補助,藩有牛貸付などの施策を実施しても,なお,牛の頭数の減少を阻止てきなかっので,岡山藩では,元治元年(1681)牛の他領売りを禁じた。
 備中松山藩では,明和5年(1771)八田部村に強訴があったが,その中の1カ条に「牛銀拝借の事」があった。  

3 牛飼場の保護

 備中北部では,牧場に柵のない夏秋の立毛中は,放牧を禁止した。天正のころ(1587−91)備中吉川領では,放牧牛が作毛を損じたときの損害賠償について,領主が規定していた。
 岡山城主池田忠継の時代(1603−15)吉備津宮の社辺に牛の放置を禁じ,また,上道郡西明寺満願寺等に禁榜を掲げ,林木山内などへ牛馬を放つことを禁じ,林木の伐採を禁じて山林を保護したところ,牧野にまで樹木が繁茂して,牛馬を飼養する農家が困惑した。
 岡山藩主池田光政(1632−72)は,牛馬入会放牧採草地が,森林政策や特権階級の狩猟区と競合して,農家の牛飼養が困難になるのを阻止するため,明暦2年(1656)野山,牛飼い場,入会い山にある木を処分して,その跡地を植林しないよう指示した。このようにしても,なお,18世紀以後も牛飼い場は縮小し続けた。 

4 馬の増殖対策

 岡山藩主は,享保年間(1716−32),備中下道郡久代村(現総社市)の1馬喰が,馬の買い出しに功労があった故をもって,毎年3人扶持を与えた。また,藩牧を許可して,馬の生産に努め,馬の国外持ち出しを禁じ,備前一宮馬市を保護して,他領からの馬の購入を図った。しかし,幕末多端のころ,馬数は僅か400頭にも及ばなかった。
 津山藩ては,享保年間(1716−32),江戸の官牧から年々数頭の雄馬を購入して,作州地方の馬の改良を図り,雌馬を民間に委託飼育させるなど産馬改良に努めた。  

5 牛馬改めと飼養牛馬に対する徴税

 牛馬改めは,初め軍役などの必要から行われたものであるが,近世中期以降になると,国外移出入を規制し,また,直接徴税の対象として捉えるようになった。諸藩において農民が,牛馬に対する重税に苦しんで,牛馬を手放した様子が,備中松山藩において,天和3年(1683)『吟味講覚書』に見られる。