既刊の紹介岡山県畜産史

第1編 総論

第2章 明治,大正時代における畜産の発達

第1節 畜産の概要

1,畜産粗生産額など

 岡山県の耕地面積は,125,400余ヘクタールで,そのうち水田が89,300余ヘクタール,畑が35,000余ヘクタールとなっている。農家戸数は164,700余戸であって,農家1戸当たり平均78アールとなっている。
 大正年代における第一次及び第二次産品の生産額は,表2−1−1のようであって,畜産物のシェアーは,まだ僅か1%台に過ぎなかったけれども,伸び率は,わずか10年間に4倍近くになっている。そして,大正15年(1926)における生産総価額は,2億8,600万円を越えている。その内訳は,工産物がその5割4分を占めて第1位,農産物の3割がこれに次ぎ,以下順に蚕業,林産物,水産物,畜産物となっている。


 大正10年(1921)における畜産物生産額は,約390万円で,全国第19位であって,全国平均の596万円よりかなり下回っていた。なお大正11年(1922)における「岡山県重要生産物番附」によれば,表2−1−2のように,東前頭11枚目に鶏卵が,西前頭15枚目に牛肉が,ようやく顔を出し,その他子牛生産,牛乳,雛が,名を連ねているという状況であった。


 また,岡山県内務部(昭和3年)の『岡山県畜産要覧』によれば,家畜家禽について,大正15年における利用価値を見積もって,表2−1−3のように総計1,711万余円としている。

  

2,牛馬牧場等の経営

 明治初年以来政府の勧農政策により,牧場を開設し,あるいは牧牛馬会社などを設立する者が相次いだ。
 牧場を開設するものの中には,いわゆる士族授産によるものもあった。これらについて,記録に見えるものを掲げれば次のとおりである。

(1)大杉牧場

 明治維新のはじめころ,真島郡見尾村(現真庭郡勝山町)に池田類治郎という者があった。畜産の発達に大いに意を注ぎ,自ら10数頭の畜牛を飼育し,いろいろ研究を重ねて,斯業の発展を期しようとすれば,まず牧場がなければならないことを知り,同郡菅谷村(現勝山町)字大杉の星山麓に山野1,000町歩を買い,明治7年(1874)起工し,巨額の費用を投じて,同11年(1878)牧場を完成し,数100頭の牛を放牧した。岡山県(昭和13年)の『岡山県郡治史』(下巻)によれば,牧場を開設したのは,明治10年(1877)であって,同年,短角種牝牡各1頭を借り受けた(満2年で返納)が,資金が欠乏したので,翌11年(1878)県から金1,500円を,県税の中から貸与の形で援助を受けた。そして,内務省勧農局に請願して,短角種牝牡2頭を借り受け,乳用の目的をもって改良繁殖に努めた。越えて12年(1879)6月,同局からゼルシー種(ジャージー種)およびデブォン種(デボン種)数頭を借りて,もっぱら改良に努めた。しかし,これらはまもなく死亡し,また,自己資金が乏しくなって,十分目的を達することができなくなったので,重ねて同局に出願して資金1万円を借り入れ,ますます改良に努めた。一方では,これを和牛に配合して退却雑種とし,役肉用種の改良にも努め,この地方の農民の指導にも熱心であった。その効果として次のようなことが考えられる。すなわち,現在なおこの地方に多数の牧場があり,畜牛の改良思想が高く,体格の優偉な均正のとれた,抗病性の,乳量の比較的多い,いわゆる作州牛の名声を博するようになったことである。これらは実に同氏の功績の賜である(真庭郡教育会(大正12年),『真庭郡誌』)。
 明治13年(1880)10月5日,内務省から7,000円(5ヶ年間無利息据置き,10年償還,年利3分)をさらに借り受け,同時に自己資金2,500円を投入し,同年5月20日洋種牛を導入して種付けに供用した。同16年(1883)には,さらにテボン種牝牡2頭の貸与を受けた。
岡山県内務部(大正15年)の『岡山県の乳牛』および小林久磨雄(大正2年)の『邑久郡誌』(第3編)によれば,池田類治郎が大杉牧場を経営しはじめたのは,元治(げんじ)年間(1864)であった。この牧場は冬期積雪により,畜牛の飼養が困難となるので,岡山県が明治16年(1883)に邑久郡裳掛村(現邑久町)にある長島官林を借り受け,これを池田類治郎に貸与し,翌17年(1884)満期となると,その翌年1月から5カ年間,池田類治郎個人から直接農商務省岡山山林事務所へ願いでて貸与の許可を受け,牧場区域を島のほぼ東半部(船越以東)に定め,柵をめぐらし,船越の地に牛舎を建て,大杉牧場から牛畜を移して,牧養したことがある。当時の状況を知る同島在住の古老の言によれば,同牧場の放牧頭数は30−50頭位で,そのうちに牝牡2頭の洋種があり,他はすべて和牛であった。この和種牛に洋種を配合して雑種生産をねらったものであるが,実際には和種牝は和種牡による純粋繁殖であって,雑種生産は行われなかったということである。以上のように,池田類治郎の牧畜業に対する執念は相当なもので,前述のように,今日の真庭郡産牛の基礎を確立することに貢献したのである。なお,池田類治郎は,明治14年(1881)3月から東京上野公園で開催された第2回内国博覧会のとき,1回雑種牝牡2頭を出品して,2等有功賞牌を受賞している。明治17年(1884)2月1日から11日まで東京において,政府が初めて畜産諮詢会を設けて,牛馬の改良増殖と取引き改善について審議したとき,岡山県から選ばれて出席した。また,当時岡山において搾乳業を経営したが,牛は,泌乳期間だけ岡山で飼育し,その他の時期は長島で放牧していた。しかし,長島は松こそ繁茂していても,飼料となるようなものは,ただ林間の小笹とカヤなどに過ぎなかった。したがって,夏季は何とか放牧できても,冬季は飼料が欠乏するので,藁とか●などでこれを補うことにしたけれども,到底牛の栄養不足を防止し得なかったため,数年でこの牧場は廃止された。
 余談にわたるが,池田類治郎は,大杉牧場にその筋から視察があったとき,地方の農家から牛を借り集めて放牧場に放ったとか,長島へ放牧した和種牛は,いずれも体格が劣等で,こんなものでは改良はおぼつかない,などと悪評もあったと記録されている(岡山県内務部(大正15年)。『岡山県の乳牛』)。

(2)高梁南町の牧牛会社

 明治12年(1879)11月21日,上房郡高梁南町に資本金2万円の牧牛会社を設立して,牧畜業を営み,県下各地に支社を設けた。発起人は,美沢繁八郎(川上郡三沢村,現川上町),藤村繁次郎(川上郡田井村,現高梁市高倉町),牧野策二(高梁町,現高梁市)の3人であった。

(3)馬桑村牧場

 明治13年(1880)8月30日,児島郡下村(現倉敷市児島)渾大坊益三郎は,勝北郡広戸村および馬桑村(以下現勝北町)の原野に牧場を設置し,南部産馬牝牡各2頭,洋牛短角種牝牡各1頭を借り受け,牛馬の改良繁殖に努めた。明治16年(1883)短角牡1頭,翌17年(1884)南部馬牡1頭を借り受け,当人は私財2,900万円を投入し,当時の勝北郡長安達清風も大いにこれを援助した。しかし,長続きせず成功するに至らなかった。
 この牧場は,面積405.9ヘクタール余の広野で,水もよく,牧草もよく繁茂して,牧場として適当であったが,気候風土や飼育管理の違いを考えないで,ただ漫然と異邦種を導入したため,大杉牧場と同じように失敗したのは遺憾である,ということであった。

(4)梨木原牧場

 明治14年(1881)5月,旧津山藩士族天野虎雄ほか6名は,同志の士族20名から3,132円を得て,美作牧牛社を設立した。これはいわゆる士族授産のために設立された会社であった。明治8年(1865)10月着任した有名な鬼県令高崎五六は,産業についても瞠目に値する大事業を行ったのであるが,明治9年(1866)産業武士が廃止されるや,武士の間に多数の生活困窮者がでたので,「殖産興業,富国強兵」の声を大にして,士族授産に力を注いだ。
 さて,天野虎雄らは,同年8月,西々条郡富東谷村(現苫田郡富村)に民有地381町歩を借り入れて梨木原牧場を設置し,政府から資金4,000円を借り受け,牝牡牛40頭を買い入れて,同年11月から牧牛に従事した。
 同15年(1882),あらたに洋種牛牝6頭および牡1頭を購入して,年々子牛を生産する計画をもって,同年10月,4,000円の貸与を政府に申請した。これが許可になって経営の充実に努力したけれども,当時はまだ牛乳の需要が少なく,これに対して飼養料,牧夫の給料などが多額にのぼったため,収支相償わず,中途で挫折した。

(5)松山村の牧畜会社

 上房郡松山村(現高梁市)柳井重宜は,明治17年(1884)短角種を,同20年(1887)ホルスタイン種を移入した。のち27年(1894)会社組織として経営している。岡山県(昭和13年)の『岡山県郡史(下巻)』によれば,大正7年(1918)畜産技術員を設置し,同11年(1922)やっと上房郡畜産組合が設置されるまで,同郡の畜牛改良の先駆者となっていたが,事業の方はいずれも頓挫したということである。 

付 士族授産

 いささか余談にわたる嫌いはあるが,ここで士族授産のことにふれておきたい。
 岡山県においても,明治初年にいくつかの民間牧場が設立されているが,これらの中には士族の窮状を救うための士族授産政策によるものがあった。谷口澄夫(昭和51年)の『岡山県の歴史』をみれば,「明治4年の廃藩置県,5年の徴兵令の施行は,旧来の藩家臣団の解体を決定的なものにした。かれらは,明治9年の「金禄公債証書発行条例」によって,従来の家禄を廃され,禄の多少に応じた金禄公債を受け取った。当時,岡山県士族1万戸が,約300万円の証書を入手しているが,一部の上級士族を除外しては受取り額は僅少で,士族授産が緊急の課題とされた。」とあり,前述の美作牧牛会社(牧牛・搾乳を目的としたもので,旧津山藩士族20名,授産金額4,000円)などが挙げられている。
 岡山県(昭和42年)の『岡山県政史(明治・大正編)』によれば,当時士族授産を目的とした結社,会社には,政府からの資金の貸付があった。今岡山県関係士族授産資金借入れ状況をみると次のとおりであって,これら12社を業種別に分けると,農業関係は僅かに2社に過ぎなかった。