既刊の紹介岡山県畜産史

第1編 総論

第4章 昭和戦後期における畜産の発達

第6節 畜産にまつわる社会民俗行事など

1 祭事

 (1) 鼻ぐり祭り

 明治33年(1900),吉備郡吉備津(現岡山市吉備津)に,中山通幽師(賀陽郡近似村(現高梁市)生(1862−1936)によって福田海が開創された。大正初年に,大阪木津川屠場から鼻ぐりが送り届けられ,その後,全国各地から送られた鼻ぐりで,現在の鼻ぐり塚ができた。毎年4月17日,供養が行なわれ,全国から食肉業者が数100人集まり,鼻ぐりを牛の霊と見立て,三帰礼拝のうちに洗い清め,その一つ一つが成仏するようにと供養する。(谷口澄夫(昭和51年)『岡山県の歴史』および長光清和(昭和48年)『岡山の宗教』)

 (2) 吉永の牛神祭り
 和気郡吉永町田倉「野山牛頭天王宮」田倉牛神社(俗に牛神さま)の正月大祭は,毎年1月5日に行なわれる。今年(昭和54年)も約2万人に参拝者が訪れ,家内の無事息災を祈願した。(『山陽新聞』1月6日号)
 大病にかかった牛が,この神社の境内にはえている笹を食べたところ,よくなったという言い伝えで,牛神さまとして,江戸時代から農家などの信仰を集めていて,願いごとのある人が,境内の牛塚から備前焼の牛一体を借りて帰り,これを祭り,願いがかなえられたら,さらに一体を加えて供える風習である。社殿のないのが特徴である。
 祭礼日には,参道の両側に金物やおもちゃ,食べ物の露店が並び,植木市も人だかりで,一日中にぎわう。

 (3) 供養田植

 松尾惣太郎(昭和30年)の『阿哲畜産史』に「西牛と供養田植」のことが詳しく述べられている。資力のある大百姓に飼われる西牛を着飾り,供養田植の日に牛供養祭を行ない,そのあと田の中へ入れて代掻きをさせる。早乙女は列になって,太鼓たたきの田植歌に合わせて苗を植えるのである。阿哲郡哲西町には10年ぐらい前まで供養田植が行なわれたと聞くが,今では田圃に着飾った牛を入れてするこの行事はすたれている。ただ,僅か25名のメムバーからなる「太鼓田植保存会」によって,いわば無形文化財のようにこれを保存しようということで,毎年7月第一日曜日に,岡山市の後楽園で,太鼓に合わせて早乙女が早苗を植える行事が,太鼓田植として伝えられているに過ぎない(哲西町教育委員会談)。

2 行幸啓

 大正15年(1926)5月21日,天皇陛下が皇太子殿下として,軍艦長門で宇野港へご上陸,本県へ行啓された日,農事試験場において,県下の代表牛6頭を台覧に供した。同時に阿哲畜産組合と邑久郡豊村(現岡山市西大寺)の岡山煉乳株式会社へ侍従武官をご派遣になった。
 昭和5年(1930)11月13日,天皇陛下が陸軍特別大演習統裁のため岡山へ行幸されたとき,18日県庁へ行幸され,図4−6−3のように,旧県庁舎軒下に設けた繋場の牛を,屋内通路から天覧された。
 昭和22年(1947)12月10日,天皇陛下は岡山へ行幸され,天満屋において開催中の岡山県物産展覧会で畜産物展示品33点(乳製品,ホームスパン,鶏卵,和牛置物)をご覧になった。ついで奥山吉備男(県農業会畜産部)の案内により阿哲畜産組合(当時阿哲郡新見町)に行幸され,その際,千屋種畜場の演ずる和牛の調教をご覧になり,碁盤乗りに拍手を送って興じられた。
 昭和27年(1952)10月10日,順宮(第四皇女)厚子内親王と旧岡山藩主池田隆政との婚儀が行なわれた。「ご降嫁」は岡山県民挙げて心から歓迎するところであった。池田隆政は,翌28年(1953)2月14日,岡山市上伊福別所の旧岡山種畜場跡地へ,かねて建設中の池田産業動物園を完成させた。このように,畜産に関係の深い池田ご夫妻は,各地の畜産共進会などに招かれ,地方の畜産農民と深いきずなで結ばれることになった。
 昭和37年(1962)10月20日,岡山国体秋季大会にご出席のため,天皇,皇后両陛下がご来岡になり,酪農試験場へ行幸されている。
 昭和40年(1965)8月,皇太子殿下は作州路へ行啓され,3日酪農大学校,4日酪農試験場を訪問された。
 昭和42年(1967)4月9日,天皇皇后両陛下は,金山休暇村の植樹祭に行幸され,県木の赤松をお手植えされた。11日にはお揃いで蒜山高原へ赴かれ,酪農大学校でお手播きの松を植えられ,植樹祭の全日程を終了された。

3.災害

 岡山県は,地理的環境から災害を受けることがまれな,恵まれた土地がらである。それでも文献を調べて見ると,かなりの頻度で,風水害,水害,風害,旱害などに見舞われている。その中で,畜産関係の被害について記録に明らかなものを挙げれば,次のとおりである。

     明治26年(1893)7月14日の風水害
 「県下に豪雨あり,三大河川,支流はんらん,被害は水死423,負傷者991,牛馬水死197頭,(以下略)」と山陽新聞社史編集委員会(昭和44年)の『山陽新聞90年史』に見える。

     昭和9年(1934)9月20,21両日の風水害(室戸台風)
 この風水害は,関西一帯に甚大な被害を与え,本県も甚大な被害をこうむった。被害調べによれば,死亡145名,重傷348名であって,家畜の斃死または流失による損害は,甚大なものであった。岡山県(昭和43年)『岡山県政史』(昭和前期編)には,これを郡市別に表示しているが,ここに,総計として表示すると次のとおりである。

     昭和20年(1945)9,10両月の2回にわたる風水害
 この風水害は,翌21年(1946)12月の南海大地震とともに,戦後の二大災害といわれているが,いずれも戦後の物資欠乏の時代のため,他地方からの救援は望むべくもなく,県は罹災者の救護,復興に奔走している。
 この風水害は,とくに吉井川に甚しく,昭和9年(1934)に匹敵するほどの被害を出している。損害調べによれば,死者80名,負傷者17名,行方不明49名,牛152頭,馬24頭,兎5,000頭(以下略)であった(岡山県(昭和43年)『岡山県政史(昭和前期編)』)。