既刊の紹介岡山県畜産史

第2編 各論

第1章 酪農の発展

第2節 酪農奨励事業

4.ジャージー種による酪農

 (3)蒜山地域のジャージー種

   1.ジャージー種導入の経緯

(1)自然的条件

 蒜山地域は,真庭郡の最北部である川上村,八束村,中和村,湯原村(旧二川村を含む)を含む全面積2万3,081ヘクタールにわたる広大な地域である。地形的には,川上・八束地区,中和地区,二川地区の3つに大別される。川上八束地区は,蒜山 三座を背景として,その山麓に連なる一大盆地で,特種な地勢を形成し地質は北部は輝石安山岩,火山岩層,沖積層で,中南部は,花崗岩,石英岩である。土壌は北部が火山灰土,中南部は砂質土であるために地味は極めて悪い。また,中和地区は蒜山の東部に位置し,村の中心部から北が盆地になって平坦であるが,南部地区は山の傾斜が急峻である。地質はほとんど花崗岩である。土壌は砂質で地味はよくない。つぎに,二川地区は蒜山地域の南部に位置し,地形は平坦地が少なく,地質は大部分が花崗岩で,一部東南部に石英岩がある。土壌は砂質土で,地味はよくない。とくに東南部の肥沃な地区の水田78ヘクタール,畑38ヘクタールが旭川ダムとして水没したので,残った地区は山林と不良地のみとなった。
 気象はむしろ山陰地方に似ている。八束村上長田気象観測所の昭和14年(1939)から23年(1948)までの記録によれば,月平均気温は摂氏11.6度で普通であるが,最高気温は意外に高く,7月に摂氏37度で,最低気温は氷点下25度と極端に低く,寒暖の差がかなり大きい。年平均降雨量はおよそ200ミリにも達し,しかも毎月の降雨量が100〜200ミリ程度である。風は相当強く,とくに7月から9月にかけて激しい。また,冬期3カ月間は積雪におおわれる。無霜日数は年間僅か156日程度であって,気象条件は本県の中で最も厳しい地帯である。

(2)経済的概況

 導入当時の経済的概況について述べれば,全般に農業の生産性が低いが,稲作収入が最も大きなウエートを占め,次に煙草,畜産,林産がこれに続くものであった。すなわち米と煙草と牛(黒毛和種)と木材,炭が産業のほとんど全部であった。このうち米と煙草は本地域の重要産物であって,とくに煙草は古くから山中煙草として知られ,作付面積も広く,重要な現金収入源であった。しかし作業労力の過重と,青年層の農業経営に対する批判から作付面積は漸減の趨勢であった。昔から畜産はこの地方の重要産業の1つであった。戦前は軍馬補充部の関係もあって,馬産に重点が置かれたものであった。しかし軍馬補充部の廃止とともに,馬は次第に和牛に切り替えられた。しかし,和牛の生産性は低く,農家経済の改善に卓効がなく,検討を迫られる時機を迎えていた。
 畜産の基盤である植生は極めて悪く,地区民の草生改良に対する認識も浅く,和牛の生産は低調であった。その他の家畜についても余り普及するまでには至っていなかった。
 林業はこの地方の最もおおきい資源であるが,年々その生産量は低下し,とくに木炭の生産は減少が目立っていた。鉱業では,沖積層地帯の1部に硅藻土生産があり,その埋蔵量はほとんど無尽蔵であると言われているが,現在発掘されているのは1カ所であり,地方産業としての地位も低い。その他,特にとりあげるべき産業もなく,従って地区内農家の収入は県内全般に比べ低位にあった。

(3)ジャージー種導入のいきさつ

 本地域の開発計画が本格的に進められたのは,この地域が,@積雪寒冷単作地帯の指定をうけたこと。A大山出雲特定地域総合開発地域に編入されたこと。B岡山県総合開発計画地域になったこと。等が原因である。その一連の作業として,昭和26年(1951)瀬戸内海総合研究会により,蒜山原開発地の総合調査が行われ,引き続いてその翌年,岡山大学によって蒜山原土地利用基礎調査が行われ,それぞれ詳細な報告書が提出された。それらの報告書に,将来の産業のあり方として,草地農業としての酪農をとり入れることの必要性が強く要望された。この報告が発表されて以来,地区内の総合開発に対する民意が非常に高まり,県もこの地区の開発に対しては多大の関心を示し,農業開拓を主体とした農業経営をとり入れることが最も適当であるという結論に達した。
 これに対して青年層は高い関心を示し,かれらの支援を得て計画が進められた。さらに有畜農家創設事業の設定に刺激されて,導入希望者も多く出てきた。
 一方県においては,とくに美作地区に重点をおいて酪農計画を立案中であった。その中で昭和28年(1953)6月,蒜山地区酪農振興計画が樹立された。そのころ農林省において,草地酪農を進めるために,地区を指定してジャージー種を貸付する計画があった。
 また,当時,旭川の総合開発のため,湯原ダム建設の計画があり,これが実現すると,二川村(現湯原町)の平坦地のほとんどが水没するので,この対策もあって,地元の熱意も相当強いことを知り,県はついにジャージー種の導入に踏み切った。このため県は,蒜山地区酪農振興計画をたて,これをもって,農林省に対して猛運動を開始した。県畜産課長惣津律士は,時の畜産局長,大坪藤市が熊本に出張した帰途を岡山駅で途中下車をこい,チャーターした飛行機で三木知事らとともに空から美作地方を現地説明して,地区指定の認可をこうた,というエピソードがある。

(4)導入時の準備態勢

 蒜山地区には,当時和牛が約300頭飼育されていたが,乳牛は,開拓地にホルスタイン種が2〜3頭いた程度で,全くの酪農処女地であったので,受入態勢を強化する必要があった。
 地域指定決定とともに,県は畜産課職員を先進地に派遣して,ジャージー種に対する研修を受けさせ,帰岡を待って中福田家畜保健衛生所に派遣,町村の受け入れ態勢を強化した。
 当初,各地で説明会を開くとともに,導入希望者を募り,その中から適格者を選定して受入準備をさせた。導入決定農家にはまず講習会を開いて基礎教育をし,さらに指導者を中国酪農講習所に派遣して実地教育を受けさせた。また農家に対しては畜舎の改造,サイロの建設,飼料作物の作付けを行わせ,それらについても実地指導を行い,導入までにはこれらの準備を完了させたのである。
 そして,衛生面についても,導入地区の家畜の一斉健診を行い,地域内に実在する各種の疾病の実態を把握した。このようにして万全の受入れ態勢を整え,昭和29年(1954)10月,待望の第1陣を感激をもって迎えたのである。

(5)導入状況

 既述のとおり,昭和29年(1954)10月28日,はじめてのジャージー種92頭が蒜山の地を踏んだ。沿道に並ぶ村民,学童の歓声は蒜山の山野にこだました。これは,はるかかなたのニュージーランドから,はるばる海を越えて来たジャージー牛に対する最大の歓迎であった。標高500メートルの積雪寒冷地帯にあって,米作以外特産のないこの地帯の農家は,例年豊作に恵まれながらも,低所得のために明日への希望を失っていた矢先,夢想だにしなかった酪農という新しい産業が実現したので,まるで救世主のように見えたという。
 国有貸付制度による輸入については既述したとおりであって,その内訳は表1−2−27のとおりである。その後世界銀行の融資による導入は,表1−2−28のとおりである。

 世界銀行融資による導入は,農地開発機械公団が世界銀行の融資をうけて,オーストラリア産のジャージー種を各県に導入したもので,国はその輸送費,導入後の事故補償等の一部を助成した。公団,県,農協の間にはそれぞれ売買契約が結ばれた。代金決算については,海上輸送費等諸雑費の邦貨支払分に対しては,導入時に支払われ,牛代の外貨支払分(世銀融資対象)については,導入後9〜10カ年に元利均等償還が行われた。県は約定手数料,国内輸送費を補助した。