既刊の紹介岡山県畜産史

第2編 各論

第1章 酪農の発展

第2節 酪農奨励事業

4.ジャージー種による酪農

 (3)蒜山地域のジャージー種

  2 ジャージー種導入後の経過

(1)ジャージー種の振興経過

 県はジャージー種による酪農振興のために,昭和29年(1954)7月1日「岡山県ジャージー地区指導要領」を作成した。また浅羽昌次,三秋尚両技師を,蒜山地区の専任酪農指導者として現地に派遣した。このころ導入町村は,それぞれ導入準備打合会を再三開催した。勝山地方事務所は全般の調整を図るために,蒜山地区ジャージー受入態勢確定要綱(昭和29年7月24日)」を制定した。
 ジャージー種導入促進と,行政対応を協議するために,同年8月23日には,蒜山地区酪農推進協議会が結成され,会長に亀山乾,副会長に池田帝,西田宇平が選ばれた。導入町村では,役場に酪農専任指導員を置いた。この指導員の連絡協調を御津にして画一的な指導を実施するために,同年8月3日に蒜山地区酪農指導者協議会を設けた。また,酪農家の中から中核的農家30人を選抜して,津山市の岡山県立中国酪農講習所に派遣し,同年9月1日から17日の間に,酪農技術を修得させた。
 昭和30年(1955)8月16日から4日間,川上村川上中学校で,農林省農業改良局と岡山県共催で,中国四国畜産及び飼料作物専門技術員研修会並びに中国四国草地研修会が盛大に開催された。(これについては,第6章に述べてある。)「本邦牧野の牧養型」,「中国草地の諸問題」,「西南暖地の飼料作物」,「傾斜地土壌保全と牧草」,「草の栄養価」,「牧野土壌の特徴」,「ジャージー種の特徴」等について講義が行われ,牧野の植生調査法の実地指導や,ジャージー飼養農家の視察が行われた。とくにこの研究会の第2日目の8月17日の夕方,三木知事が臨席し,夜の懇親会で挨拶した。その夜,知事はジャージー種ゆかりの蒜山原にキャンプした。この蒜山原は,元陸軍の演習地であった関係で,軍の将軍の名をとった地名が多く,建川師団長の建川台,森田師団長の森田山等がそれである。これらは戦争を連想させるということで,土地の人は新しい名称を望んでいた。そこで,ジャージー種導入に率先陣頭に立った三木知事がキャンプしたのを記念し,この地帯の草原を三木原と呼ぶこととした。
 県は,美作地域の酪農振興を進めるために,農地経済部に,昭和31年(1956)1月「美作集約酪農地域振興対策室」を設け,また翌32年(1957)県酪農試蒜山分場を設けたことは既述のとおりである。
 昭和37年(1962)4月1日酪農試験場蒜山分場を県立酪農大学校に合併した。昭和40年(1965)11月1日,県立酪農大学校は閉鎖され同時に財団法人中国四国酪農大学校が開校し,これがこの地区の農家の指導,診療,人工授精等の業務を引継いだ。
 ジャージー種の産乳が本格化し,その処理を要するようになったので,昭和31年(1956)1月16日,蒜山酪農業協同組合の設立総会が真庭郡八束村中福田,大宮劇場で開催された。この農協は川上,八束の両村内のジャージー種牛飼育者を正組合員とし,飼育希望者を準組合員として組織した。この組合は県の酪農振興計画にそって酪農振興を図り,組合員の社会的,経済的地位の向上を図ることを目的として,つぎの事業を行った。

 1.組合員の酪農に必要な共同利用施設の設置
 2.組合員の生産する物資の運搬,加工貯蔵又は販売
 3.酪農作業の協同化,その他酪農労働の効率の増進に関する施設
 4.組合員の酪農に関する技術及び経営の向上を図るための教育並びに一般的情報の提供に関する施設
 5.組合員の経済的地位の改善のためにする団体協約の締結
 6.その他附帯する事業

 なお,この組合の事務所は,真庭郡八束村に置き,出資金1口の金額は5,000円で,全額一時払込みとした。
 また酪農家は,各町村ごとに酪農組合を結成した。昭和33年(1958)3月5日,5カ町村の酪農団体は,蒜山地区酪農組合連合会を結成し,会長に入沢美,副会長に遠藤一郎,若山京が選ばれた。これらの組合は,岡山県北部酪農協同組合(北酪と略称)に団体加入した。この内川上,八束両村は蒜山酪農業協同組合を通じて加入した。 
 その後川上,八束両及び湯原町は昭和41年(1966)酪農近代化計画を樹立した。続いて昭和46年(1971)には,第2次酪農近代化計画を樹立して自営農家の育成,飼料自給度の向上,草地改良の促進,集乳の合理化を企画した。また川上,八束両村は,良質自給飼料の増産対策,自給率の向上のために昭和50年(1975)に飼料作物生産振興地域の指定をうけた。このほか,広大な原野と高原地帯の立地を活かした野菜(大根),水稲,畜産(乳用牛.和牛)を振興させるために,農業振興地域整備計画,第2次農業構造改善事業,肉用牛生産振興計画,野菜指定産地整備計画等の農業振興諸計画と対策をたて基盤整備に努めた。米に次ぐ大きな産額となっている大根は,現在3〜5年で連作障害の「いや地」現象が発現し,他作目との輪作体系の確立や新たな基盤整備等の問題が提起されている。
 昭和37年(1962)から,川上村朝鍋団地ほかに合計200町歩の大規模草地造成事業が行われ,同38年(1963)7月24日から放牧を開始した。また県は,同年4月1日,川上村三木原に県営乳牛育成場を設けて,ジャージー育成牛を41年(1966)まで預託し,初妊牛を農家に返した。この牧場は同育41年(1966)財団法人,中国四国酪農大学校に移管された。
 昭和38年(1963)8月11,12両日,蒜山地区ジャージー導入10周年を記念して,ジャージー祭が盛大に催された。
 昭和39年(1964),北酪は,ジャージー種10頭をカンボジアへ初輸出した。同43年(1968)にもジャージー種15頭を輸出し,ホクラク農業協同組合の早島清志が護送した。これは政府の賠償物資提供の一環として行われたものである。
 昭和40年(1965)8月3日には,皇太子殿下が蒜山地区に行啓され,三木原のジャージー種の放牧や県立酪農大学校を視察された。また同42年(1967)4月10日,植樹祭のため,天皇・皇后両陛下が酪農大学校に行幸啓になったとき,ジャージー種2頭を天覧に供した。
 昭和43年(1968)10月10日〜13日,ジャージー種導入15周年を記念して,第1回全日本ジャージー共進会が蒜山で開催された。北海道,青森,岩手,秋田,群馬,山梨,長野,静岡,岡山,佐賀,熊本,宮崎,の各県から100頭のジャージー種が出品されたが,表1−2−29のとおり本県の出品牛は各部において上位を占め,日本一の生産地として名声を高めた。このとき川上村小学校講堂において,第4回全日本ジャージー大会が挙行され,多くの参会者が見守る中で,情勢報告がなされ,ジャージー酪農振興の基本対策を中心に議事が進められた。

(2)増殖状況など

 本地域には国有貸付制度によるもの450頭,世銀融資によるもの559頭のジャージー種が,昭和35年(1960)まで輸入されたのであるが,その後,自己資金によって昭和39年(1964)にはニュージーランドから98頭,同43年(1968)にアメリカから10頭,同45年に64頭(内1頭雄),同49年(1974)に2頭,同53年(1978)に38頭 を輸入し,全部で1,221頭を輸入した。アメリカ産のものは大型で,泌乳性は高かったが,体型は斉一でなかった。オーストラリア産は泌乳量が少く,体型資質も均一性を欠き,人気がなかった。ニュージーランド産はやや小型であったが,体型が整っており能力が高かった。とくに昭和39年(1964)に導入した牛は,全般に泌乳能力が優れていたため人気がよく,以後おもにニュージーランドから輸入するようになった。 

 図1−2−13および表1−2−30のとおり,昭和45〜46年(1970−71)まで順調に伸びたジャージー種は,その後減少傾向となって,現在(昭和53年)2,328頭となった。しかし,国内では本県が最も多く,資質のよいことでも有名である。飼育戸数は昭和35年(1960)を頂点に減少傾向を示した。従って昭和33年(1958)の経営規模1戸当たり平均2.2頭は,昭和52年(1977)には8.9頭となった。

(3)産乳能力と改良

 当初に輸入されたジャージー種は,船輸送途中,又は検疫期間中に分娩したものもあり,これらは泌乳能力が低かった。また輸入牛は妊娠しているものが多く,シーズン種付で,種付月齢の不明のものがほとんどであった。中には若齢で種付されたものがかなり多かった。その上環境が激変したため,泌乳量が少なく,ジャージー種は乳量が少ないという悪評が広まった。しかし産次が進み,飼養技術が改善されるに従って,漸次産乳成績は向上した。昭和31年(1956)から35年(1960)までジャージー種経済能力検定成績を行なったが,最終年における成績は表1−2−32のとおりであった。

 ジャージー牛乳は,外国では原料乳仕向けとして出荷されているが,当時の北酪は,奨励の意図もあり,市乳原料として買い入れた。市価は1升(1,875キロ)52円に,脂肪スライド制を採用したので,ホルスタイン牛乳の乳価の1.5倍になり,生産者は優遇された。
 種雄牛は,導入当初キリスト教会から借用したり,国の種畜牧場から借りうけて供用していた。はじめての種雄牛は中福田家畜保健衛生所に繋養していたが,その後,県酪試蒜山分場に,ついで岡山県立酪農大学校に引き継がれた。津山市の岡山県酪農試験場にも種雄牛を繋養して,津山地方のジャージー種に授精する一方,蒜山地域に一時定期的に液状精液を輸送していた。
県が単独で輸入したジャージー種雄牛は表1−2−34のとおりである。

 蒜山酪農業協同組合は,昭和50年(1975)2月から,家畜改良事業団の乳用牛群改良推進事業に参加して,乳量検定をうけた。その成績を35年度と比較すると,乳量は大幅に向上していて,その平均乳量は,3,540キロ,51年(1976)は,3,679 キロであった。平均脂肪率は,4.8%である。最高乳量は,5産の315日搾乳で,7,289キロ(昭和51年(1976)6月29日分娩)であって,ホルスタイン種に匹敵するほどの乳量であった。高年齢では産次11産,335日搾乳で,4,098キロのものもあり,また12産で検定中という寿命の長いものもいる。また,同組合は,4,000キロ以上の泌乳能力のあるものを保留しているが,53年度末までに302頭となっている。

(4)生乳の生産と処理

 導入当初に分娩したものは,産乳量が少なかったために,ほとんど自家消費されていたが,生産量が増加するにつれて,共同出荷の必要に迫られてきた。蒜山地区酪農推進協議会は,昭和31年(1956)1月15日,八束村中福田で,関係者を集め牛乳の処理問題について協議した。その結果,出荷先を北酪と決め,勝山町まで来ている集乳車を,湯原町禾津まで引き込むことにした。また同所渡しで乳価は,脂肪率3.2パーセントのもの1升40円,これを超えるものには0.1パーセント増すごとに1升につき1円を加算した。また,将来生産量が増えたときには,冷凍装置のある集乳車を回すこと等を決めた。
 出荷先の津山市川崎にある北酪は,現地から約90キロの遠隔地にある。当時は道路も悪く出荷に苦労した。最初に共同出荷したのは,昭和31年(1956)1月25日で,この日は一寸先も見えない猛吹雪であった。生乳をトラックにのせて湯原町農業協同組合まで運び,ここで北酪集乳車に積みかえた。出荷量は僅か144キロであったが,生乳を出荷するまでの農家や指導者の苦労は筆舌に尽くしがたいものがあった。当時の記録によると,生乳を運んだ者は嬉しさの余り,流れ出る涙を止めることができなかったということである。8本の送乳缶には,酪農による蒜山開発という大きな夢がいっぱいつめられていたに違いない。それから20年後の今日,年間8,544トンの生乳が生産され,産額11億円に達する特産品となったのである。
 川上村,八束村,蒜山酪農業協同組合は,資本金201万円を投じ,八束村中福田に,日量処理能力,375キロの低温処理施設を設けた。これは地元農家の牛乳飲用の促進と,蒜山観光客へのサービスを目的にしたもので,昭和31年(1956)7月から飲用牛乳の市販を始めた。その後,本事業は八束,川上両村の酪農家が結成した蒜山酪農業協同組合が運営することになった。また,湯原町二川地区では昭和34年度,学童給食用に簡易処理施設を備え,飲用牛乳の消費促進を図った。その後,生乳共販模範地区として湯原町禾津にクーラーステーションを設け中継基地とした。年間乳量8,545トン(昭和50年)生乳のうち21.8パーセントに当る1,860トンが蒜山酪農業協同組合で加工され,78.2パーセントに当る6,685トンが雪印乳業によってホルスタイン種の生乳と混合され,京阪神に出荷されている。ジャージー牛乳は一般市乳に比べ甘味が強く,黄色が濃く,コクがあり,ゴールドミルクと呼ばれ,消費者の評判も漸次高まりつつある。

(5)草地の造成

 蒜山地域の総面積に占める山林原野の割合は,85パーセントと大きく,しかも山林原野の60パーセント以上が公有林で,その大半が採草地(入会地)として利用されていた。しかし,その生産性は非常に低かった。明治以来夏期における農民の日課に草刈りがあった。農民は毎日未明に起きて役牛に車を曵かせて山に登り,1年中の飼料と敷草を刈っていた。二段刈りと言って,午後再び山の登り,水田の堆肥用の草を刈っていた。このような過重な農作業が5月から100日間も続けられた。このため農民に過労から起こる疾病が多かったという。このような地域が国の集約酪農地域の指定をうけ,ジャージー種が導入され,その粗飼料自給のために巨費が投入され,改良草地の造成が行われたのである。
 川上村,八束損は傾斜度15度以下の比較的平坦な牧野が多く,機械力によって全面耕起して散播が行われたが,湯原町,中和村においては20度以上の急傾斜地が多く,等高線帯状の階段耕法が採用された。ジャージー種はホルスタイン種に比べ,体重が軽く,運動性に富み,30度近い急傾斜地でよく採食した。
 昭和34年度,美作大規模草地改良基本調査が当時の農林省の農地局,農地事務局,振興局,中国農業試験場などの諸機関の協力のもとに実施され,表1−2−36のように昭和50年(1975)までに,1,960ヘクタールの広大な草地が造成された。またこの地帯は水田単作であったが,現在では裏作にイタリアンライグラスを作付けするようになった。

(6)ジャージー種の変遷

 昭和29年(1954)ジャージー種導入後,川上,八束,中和,湯原の各町村には酪農家が着実に増えた。昭和33年度においては,新たに美甘,新庄の両村がジャージー地区に加えられた。当地方の農家戸数,ジャージー種導入当初約3,400戸であったが,同40年(1965)ごろから多少減少傾向を示し,他地域同様,同48年(1973)のオイルショック以降は大きく減少し,同52年度末には2,733戸に減少した。この間酪農家戸数は,同33年度末595戸であったものが,同38年(1963)に724戸まで増加し,その後昭和45年(1970)まで毎年約20戸ずつ減少した。ところが同48年(1973)に100戸,同49年(1974)に60戸,同50年(1975)に100戸と大幅な減少をみた。すなわち,48年(1973)以降,小規模経営者は,後継者不足,経営拡大の基盤の確保が困難,飼料費の高騰,ふん尿の処理ができない等の理由により脱落していった。また乳質改善のためにバルククーラーの設置が奨励され,その導入は経営拡大を前提とすることになり,規模拡大の困難な農家に酪農を捨てさせる結果となった。
 本地域に,ジャージー種が導入された当初は,わずか数頭のホルスタイン種しか飼われていなかったが,昭和42年(1967)ごろからホルスタイン種が導入されるようになり,その後急激に増加した。その理由は,ジャージー種導入当初は,農家の繋養頭数が少なく,放牧,採草など粗飼料主体の飼養で,ジャージー種の特性が活かされた経営であったが,頭数規模が拡大したため,放牧したり,充分な採草をするだけの草地の確保が困難となり,粗飼料主体の飼養ができなくなり,舎飼いで濃厚飼料偏重の飼養をするようになった。このためジャージー種の特性が失われ,事故が発生したり,能力低下したりして経営は悪化した。舎飼いで濃厚飼料偏重であれば,ホルスタイン種の方が生産性が高いため,ホルスタイン種を混飼する者またはこれに転向するものも出て来た。また導入当初,ジャージー種は乳脂が5.2パーセントであったため,乳価はホルスタイン種の1.5倍にもなったが,昭和35年(1960)ごろから乳脂率0.1パーセント増に対する割増し乳価を,3.7パーセントまでは75銭,それ以上は53.3銭とした。またその後,4.2パーセントで脂肪スライド乳価が打ちきられ,ジャージー乳の有利性が失われたために,乳量の多いホルスタイン種に転向するものが多くなった。このようにして,この地域にも昭和42年(1967)からホルスタイン種が多く飼われるようになり,その後,ホルスタイン種は年々増える傾向にあり,ジャージー種はわずかに減少の傾向にある。

(7)酪農経営の変遷

 ジャージー種導入以来,その経営規模は,昭和30年(1955)の1.7頭から,漸次 拡大され,50年(1975)には11.1頭となった。またホルスタイン種との混飼も多くなってきた。その代表的農家の経営事例をあげると,昭和30年(1955)頃の粗収入は,44万8,980円で,その内訳は,米(58.6%),酪農(2.6%),和牛(8.2%),たばこ(32.4%)であった。
 昭和49年(1974)に,八束村中福田の大規模草地けやき団地に「八束村農協哺育育成場」(公共育成場)が建設された。草地は約30ヘクタールで,ジャージー種育成牛130頭(52年8月調)を飼養していた。この牧場は開設当初,牛の受託育成を実施していたが,昭和51年度からは買収売払方式に切り替え,子牛を買い取り,妊娠牛で払い下げている。業務は3人で実施していた。真庭地方振興局,真庭家畜保健衛生所,真庭農業改良普及所,八束村役場,八束村農業協同組合,蒜山酪農業協同組合,財団法人中国四国酪農大学校等で組織する八束村農協育成牧場連絡協議会の指導により,八束村農協育成牧場運営委員会がこの牧場を運営した。現在(昭和53年)も川上,八束両村のジャージー飼養農家が活用している。
 昭和52年(1977)には,大規模な牧場が数カ所できた。その1つに有限会社,百合原牧場がある。この会社は昭和44年(1969)ごろ,4戸の農家が各自の大根作のために必要な労力を捻出するために共同搾乳を実現することにしたが,その後,昭和46年(1971)に酪農部門の協業が提案され,資本金1,200万円を出資して,42ヘクタールの改良草地がを借り入れ,150トン容積の気密サイロ2基と,牧草の管理調製のための大型機械を導入して,夏山冬里方式で,4組の夫婦と常雇1名をもって,97頭のジャージー種を飼養することとした。その粗収入は約3,400万円で,当地域の立地を活かし,酪農の弱点である労働の過重を,協業によって解決した理想的な経営である。(詳細は第3節を参照のこと)

(8)観光と酪農

 鳥取県境に沿って蒜山三座が美しい姿を連ねている。これらは大山火山群の一部で,高さは1,100メートル余りで,山肌はなだらかなスロープをえがき,広大な蒜山高原を展開している。この高原の歴史は古く,各所に古墳があり,古代から多くの住民が農業を営み,狩猟を行っていたものと思われる。しかし奥深い別天地であっただけに,汚れを知らない美しい景観の中に,古い習慣や文化財が多く保存されている。また隔絶された環境は,よそでは見られない変った動植物の宝庫ともなっている。
 蒜山高原がレクリエーションエリアとして注目されたのは,昭和31年(1956)三木原に県営セントラルロッジが設けられた時からである。以来,ハイキング,スキー,キャンプと若人の憩いの場所となり,昭和36年(1961)には山陽休暇村,その翌年県営ユースホステル,同38年(1963)蒜山国民休暇村とつぎつぎに設けられ,同45年(1970)には鏡ケ成から三木原までのスカイラインが完成して大山と蒜山の間を20分で結ぶようになって,夏から秋にかけては車が列をなすようになった。この三木原に財団法人中国四国酪農大学校の第2牧場があって,ジャージー種約100頭が放牧され,蒜山山麓には百合原牧場,欅団地が遠望され,サイロのある畜舎の風景は異国を思わせる風情である。冬はこれらの牧場はスキー場となり,ホルスタイン種の牛乳よりも一段と濃厚なジャージー牛乳は,蒜山名物として観光客に人気がある。このように酪農が蒜山の観光産業に貢献するところは大きい。