既刊の紹介岡山県畜産史

第2編 各論

第1章 酪農の発展

第2節 酪農奨励事業

4.ジャージー種による酪農

(4)その他の地域のジャージー種

  1 津山地区

(1)美作地区における酪農の概要

 第二次世界大戦後,津山地区の乳牛の頭数は年々増加し,昭和28年(1953)2月1日現在の統計によると,津山市140頭,真庭郡120頭苫田郡180頭,英田郡80頭,勝田郡390頭及び久米郡200頭,計1,110頭であった。また,牛乳の需給状況は表1−2−38のとおりであった。

(2)ジャージー種導入の経過

 はじめて津山地区にジャージー種が導入されたのは,横浜動物検疫所で検疫をうけたアメリカ産の63頭が,昭和29年(1954)10月28日,津山駅に到着したのにはじまる。これらは,津山市東一宮,高田両地区に導入された。10月31日午前11時,一宮公民館において盛大な引渡式が催され,この式には三木知事をはじめ県の藤本農地経済部長,惣津畜産課長のほか,池田隆政,岸本北酪組合長,その他多数の来賓があった。

 昭和32年(1957)までに,さらにアメリカ産63頭,オーストラリア産68頭,ニュージーランド産7頭,計138頭が輸入された。これらの産乳能力は,年間平均2,748キロ(273日)と低く,脂肪率5.27%であった。珍しいことにアメリカ産のジャージー種に限って牛バエ(キスジウシバエ)が発生し,昭和29年(1954)末から翌年6月の間に429匹の幼虫が牛の背腰部らか発生した。
 当地域は水田地帯で,蒜山地域と異なり,粗飼料の生産は水田裏作,畑の輪作によった。当時の反当収量は,裏作の場合イタリアン・ライグラス2,500キロ,レンゲ1,500キロ,カブ4,000キロ,コモンベッチ1,500キロ,畑作ではとうもろこし3,000キロ,青刈大豆1,500キロ,レープ3,000キロ等で,極めて密度の高い輪作が指導されていたけれども,収量は現在に比べると非常に少なかった。
 この地域は放牧する草地がなく,すべて舎飼いで,ジャージー種の特性が生かされる環境ではなかった。従って,生産性が低く経営の向上が望めず,ホルスタイン種に移行する農家が増えた幸いなことに岡山県酪農試験場が近くにあり,酪農の基本的技術の指導が徹底的になされたため,その技術が今日のホルスタイン酪農が生かされ,現在も比較的規模の大きい,安定した経営農家が多い。 
 昭和29年(1954)12月に,大田.一宮,上横野,大篠地区にジャージー酪農組合が結成され,それぞれ清水正秋,児玉律,高山敏夫,茂渡惣市が組合長に選ばれた。
 昭和30年(1955)5月15日,津山市一宮の家畜市場において,第1回ジャージー飼養管理共進会が行なわれた。この共進会は津山市が主催したもので,導入されたジャージー種62頭全部を対象に,過去6カ月間の飼養管理の実績を共進するという特種なもので,発育,栄養,繁殖,泌乳,管理の全般について審査が行なわれた。
 その第2回は,昭和31年(1956)5月13日,中山神社の境内で160頭の参加によって行なわれた。第1回に比べて,格段の進歩の跡があった。この審査は個体の審査のみならず,施設,自給飼料,飼養管理状況も併せ審査が行われた。

  2 その他地区のジャージー種

 蒜山地方,津山市のほかには東西両粟倉村,大原町に政策的にジャージー種が導入された。(表1−2−39参照)その他美作町,作東町には,農家が自らジャージー地区から少数導入したことがある。その増殖状況は表1−2−40のとおりである。