既刊の紹介岡山県畜産史

第2編 各論

第1章 酪農の発展

第3節 酪農経営の推移

3.酪農経営の変遷

(1)副業としての乳牛飼養

 「副業としての乳牛飼養」について,岡山県内務部(大正14年)の『岡山県の乳牛』には次のように述べている。すなわち,「県南における牛の飼養状況からみると,その大部分は耕牛である。耕牛とは鍬や鋤のように耕作のために使われる牛である。従って牛からの直接の利益は何もない。牛を飼う以上はもっと利益を伴う方法を講じなければならない。農産物残渣の飼料への応用とか,配合飼料を作るべきである。また牛種の選定に留意し,その特性を生かすことが必要である。例えば,乳牛を例にとれば,乳牛の飼養はさほど困難なものでもなく,投機的なものでもない,農家の副業として始めようとするならば,@最初より大金を投じないこと。A信用ある商人を選定して取引を行うこと。B家族労力で乳牛を飼うこと。等を守ってやるべきである。育成する以外に,余乳を出荷して搾乳をすると,経営はもっと有利になる。交通機関が発達してきたので,小田郡,邑久郡の2会社に近接した地方だけでなく,陸路4〜5里(19.6キロ),鉄路5〜6マイル(37.2キロ)は牛乳の輸送が出来る筈である。これらの地方には,特に粗飼料の確保が難しいと言うが,県南には,農家2戸に1頭を飼養するとすれば,実に3万頭の乳牛が飼養出来る。この場合,1町5反歩に1頭となるので,粗飼料は耕地の内2反歩に牧草(エンバク,玉蜀黍,レンゲ,ザートウィッケン,根菜類)を栽培すれば,2,000余貫の収穫が得られる筈である。この上畦畔草,ワラを利用すれば,充分な給与ができる。また,肥料として利用している大豆粕,綿実粕,菜種粕,その他の油粕は,本県の金肥使用額の半分を占めているが,これらは乳牛の飼料に回すべきである。たとえば,油粕類約200匁は,乳1升を生産する力を有し,かりに大豆粕200匁が9銭として,乳1升20銭とすれば差引11銭の利益があることになる。以上のように乳牛飼養は,農家の副業として相当有利であるが,乳牛個体により,又その飼養管理の巧拙により収入は大きな差を生じる。」と。

(2)経営事例

 @ 育成本位の飼養
 例 大正11年(1922)6月購入,同13年(1924)6月売却(735日間飼養)

 差引63円74銭5厘,1カ年の利益31円87銭。 

A 生産繁殖をなす飼養
  第1例  (邑久郡豊村岡崎朝一)
   一日最高泌乳量 8升(初産)
  飼養期間        (416日間)
  大正11年8月29日
  同12年10月19日
  泌乳期間 354日間
  乾乳期間 62日間
  収支計算
  収入  604円77銭5厘
 内訳

  支出  298円25銭
 内訳

 差引  306円52銭(利益)
 備考

 右乳牛購入費は430円その利益金は元金に対し7割1分強に当る。ただし,購入資金に対する金利年1割とすれば支出においてさらに約50円を計上しなければならない。

(3)乳牛能力

 泌乳量の多少は,1日最多乳量のみでは判定できるものではなく,1乳期の総乳量によってその経済価値はきまるものである。しかし,長期間の乳量を記録したものがないので,大正12年(1922)当時の乳牛協会の能力共進会の成績をみると次のとおりである。(この調査は,連続3日間の搾乳量を調査して,1日平均量を求めたのであるが,大正12年度および13年度の成績中優良のものは次のとおりである。)

この成績を見ると,今日の乳牛に比べても恥ずかしくない能力を示している。このような優れた牛は数が少なかったのではあるまいか。

(4)有畜農業

 昭和初期の農村不況対策として,農業経営の合理化および農村経済の更生振興が図られ,その一環として有畜農業が奨励された。有畜農業という用語は,「農業経営要素として適切な種類,数量の家畜家禽を経営の中に有機的に組み入れ,その適切な運用によって,農業経営全体が健全かつ有利に改善されると同時に,畜産の堅実な発達を図るもの」と解説された。このような畜産経営が,投機的な家畜飼育あるいは非農民的専業畜産経営に対する反省として提唱されたことは,わが国畜産業を再編するほどの意義をもつものであった。

(5)飼養管理の状況

  1 昭和前期

 一般に搾乳業者は,多くの乳牛を飼っていたが,一般農家は単に農業経営の合理化のための1手段として1〜2頭を飼っていたに過ぎない。従って,その技術も低劣であった。粗飼料の主体は稲藁が中心で,夏期だけが青草が利用される程度であった。この外に牛乳1升生産に対してふすま1升を加え,他にわずかに米糠,麦 糠などを与えていた。
 大豆粕は古くから肥料として用いられていた。昭和2年(1927)に鈴木梅太郎博士によって飼料化が提唱され,国は昭和5年(1930)から大豆粕の飼料化普及のために助成を行ったので,次第に普及された。
 大正4年(1915)の「岡山県種畜場要覧」による飼料基準は次のとおりである。

 右のほか栄養の状態や季節により,とうもろこし,麦糠,牧草,油粕,エンシレージ,燕菁等を給与す。
 『牛の飼ひ方』(昭和16年3月)の年間飼料は次のとおりであった。

 昭和12年(1937)ごろから自給飼料の増産のために,サイロの普及が図られた。セメントが不足してきたため三和土を利用したこともあった。このころからサイロのエンシレージ材料としてどのようなものが詰められていたか定かでないが,昭和10年(1935)の岡山種畜場要覧には,飼料作物としてオーチャードグラス,イタリアンライグラス,アルファルファ,燕麦,とうもろこし,ルタバカ,ビート,ケール,ジョンソングラス等が栽培されたと記載されている。熱心な酪農家は野草,イタリアンライグラス,燕麦,さうもろこし等を詰めていたのであろう。当時は食塩が混ぜられていた。

  2 昭和戦後期

 県は美作集約酪農地域を指導するために,昭和31年(1956)に美作集約酪農地域振興対策室を設け,指導要領を作り指導の統一を図った。この要領は,経営規模3頭程度の小さなものを目標にしていたが,飼養管理から飼料作物の栽培方法まで細かく述べ,さらに施設の設計までが記載されていて,当時としては内容の新しいものであった。
 その後,乳牛飼養規模の拡大に伴い,独立屋舎としての牛舎が建設され,さらに最近では多頭飼育の進行によって,省力的構造で,牛乳の衛生管理を考慮した大胆な改造牛舎が出現した。昭和37年(1962)には岡山県立高松農学校に本県初めてのフリーバーン式牛舎が建てられ,昭和42年(1967)には財団法人中国四国酪農大学校に3様のフリーバーン式牛舎が建設された。これらにはタンデム式,ヘリーンボーン式のミルキングパーラーが装備された。アメリカでは昭和33年(1958)ごろからミルカー(搾乳機)が普及していたが,わが国には昭和35−36年(1960−61)ごろから普及しはじめた。岡山県北部酪農業協同組合におけるミルカー(搾乳機)の普及状況は表1−3−5のとおりであった。

(6)戦後の酪農経営

  1 酪農経営形態の動向

 第二次世界大戦の終結を境に,農地改革,牧野解放など,めまぐるしいほどの農政の変化に対して,酪農家は将来の方向づけに迷った。有畜農家創設事業は,無畜農家解消という建前からとにかく農家に家畜を導入したが,これは少頭数の導入であり,畜産経営とは結びつかなかった。その後繋養頭数が増え,規模が拡大されるにしたがい経営意識が高まってきた。酪農を立地的にみた場合,畑地酪農,水田酪農,山地酪農,草地酪農と分類し,資本や頭数の上から専業酪農,副業酪農,主畜酪農とも称した。昭和36年(1961)以降農業基本法の制定等により,他産業との所得格差の是正,いわゆる選択的拡大等により,重点的に牛乳生産の増強に努めた。そのため経営も多頭飼育に進み,酪農経営は戦後の農業振興のヌーベルバーグとさえ呼ばれた。昭和40年(1965)に樹立された酪農振興計画では,目標の昭和45年(1970)に,農業所得を80万円前後と想定した。この場合,主畜経営では,搾乳牛7〜8頭,酪農部門の所得60パーセント以上,有畜経営では,搾乳牛3〜5頭で40〜60パーセントの所得を目標とした。このような多頭飼育が進むとともに,自立経営的酪農の発生がみられた。また酪農の一部は経営が拡大するにつれ,都市近郊の商業的「企業的酪農」が行われるようになった。この行き方と反対に,蒜山地区のジャージー種の酪農のように草地型酪農も地域的に発達した。

  2 牧野勉の酪農経営

 本県の水田酪農経営で先進的な経営事例に,邑久郡邑久町の牧野勉の酪農経営がある。この経営は昭和17年(1942)から始まり,昭和53年(1978)の成牛40頭,育成牛10頭の規模に成長した模範的経営事例である。この経営の発展段階をみると,昭和17年(1942)から35年(1960)の間は副業的酪農時代で,土づくりのために搾乳牛が1〜3頭を飼育し,米麦の増収に力を注いだ時代であった。昭和35年(1960)から所得倍増のために5カ年計画を樹立し,最終目標の昭和40年(1965)には乳牛が10頭となり,年間所得は約200万円に近づき,おおむね目標に達した。この間経営の重点は自給飼料の確保により飼料自給率を向上し,経営の安定を求めたことである。すなわち,水稲の直播栽培とその裏作の利用,水田転換畑の達成による通年青刈給与体系の確立を図った。昭和40年(1965)には後継者がこの経営を引き継いだ。後継者は,昭和41年度から45年度までの5カ年計画を樹立し,乳牛20頭を飼育し,年間所得250万円をめざした。この間の技術目標は、良質サイレージによる通年サイレージの給与体系の確立であった。なお,このためにグループを組織して共同利用組織を確立し,水田における機械化一貫作業を試みた。その後,昭和46年度から50年度にかけて,酪農経営専業化5カ年計画を樹立した。これは牛舎を自然流下式にして,糞尿を土地還元をすることを改善目標とした。昭和51年度に貯尿槽に溜まった糞尿を,固液分離して固体部分を取り出し,残った尿に水中ポンプ式の爆気装置により爆気して,好気性醗酵とし,脱窒,脱臭を行ない,田畑に散布した。この方式は農林省畜産試験場の指導により実施したが,全国的に注目をあびた。昭和54年(1979)に第8回日本農業賞を受賞した。

  3 有限会社百合牧場(共同牧場 ジャージー種)

 真庭郡八束村の西端に位置する八束村農業協同組合蒜山上団地牧野27ヘクタールを,昭和44年(1969)から借り受け,立田武重組合長以下4戸が,夏山冬里方式で現地搾乳の共同作業を開始した。
 その2年後酪農の協業経営に移行した。昭和46年(1971)資本金1,200万円を出資し,42ヘクタールの草地を借り入れ,現在(1978)の協業経営となった。その後,150トン容気密サイロ2基と,牧草管理用大型機械を導入して,夏山冬里方式で4組の夫婦と常雇1名で,97頭のジャージー種を飼養し,年収3,400万円をあげている。(表1−3−8参照)

  4 複合経営

 昭和30年代後半から,規模拡大された酪農経営の多くは,借入金に依存しながら頭数規模のみを一方的に拡大し,飼料の大半を購入に頼る,いわば搾乳専業的経営が多くなった。これを個別経営の面からみると,@生産資材の外部依存度が高くなることによって,経営の収益性が価格変動に敏感に影響される。A生産物,副産物の経営内循環が断たれ,飼料費が高くなり,糞尿処理に困る。B畜舎,施設費に多額の金がかかり,その利用率が下り過剰投資の傾向が強まる。
 また,国民経済的にみると,@選択的規模拡大によって,一部農産物の過剰と,食糧自給率の低下,A土地利用率の低下,B兼業化進展による集落機能の低下等が指摘された。
 こうしたひずみの是正対策として,複合経営の見直し論が提唱された。複合経営には,@年間の労働配分の平準化,A自然災害や価格変動に対する危険の分散,B生産物,副産物の経営内循環による付加価値の増大とコストの低減,C輪作体系による土地利用の高度化,D機械,施設の高度利用による固定費の低減等の利点がある。
 しかし,わが国の酪農経営は,このような複合経営論にもかかわらず,1戸当りの平均飼養頭数は17.8頭と増加し,なお規模拡大の方向にある。しかも経営方式としては,酪農主業,ないしは専業酪農を志向している。また,土地基盤が小さく,複合経営の利点である輪作のメリットが生かされない。核家族化した今日では,多部門をとり入れられない。小規模な経営基盤では大きな機械施設が入らない。専業化した方が生産資材購入や乳価の点で有利であり,金融や県の助成が受けやすい,等のことから個別複合経営の限界がきた。

  5 地域複合酪農

 この形態は,ある一定地域内の個々の農家は専作的に規模拡大し,相互に土地,労働力,機械,副産物を交換して,複合経営の利点を生かそうとするものである。経営を拡大してゆくと飼料栽培用地が不足し,糞尿処理に困るようになる。そこで,稲作農家の水田裏作や,野菜農家の土地を借り,糞尿を酪農家以外の土地に還元し,酪農家を含めての専業専業経営の欠点を,地域的に解決することをねらうものである。こうした傾向は昭和48年(1973)ごろから県下各地にみられるようになった。前述の牧野勉らによる長船町農業協同組合酪農部のこの種の事例は,模範事例として昭和52年度朝日農業賞を受賞した。