既刊の紹介岡山県畜産史

第2編 各論

第1章 酪農の発展

第5節 生乳の需給

1.明治大正年代における生乳の需給

 本県では,上垣源夫が始めて搾乳営業をした。次に池田類次郎が岡山市内山下(現在の相生橋西際)に牧場を設けて酪農をした。当時東山付近に外人が2人居住しており,その飲用に供したといわれている。小山繁,中川横太郎等が営業したのはその後である。明治10年(1877)以前には,和牛から搾乳していた。明治17年(1884)末には,搾乳業者わずかに16戸,搾乳牛頭数42頭,1カ年の搾乳量は69石余にすぎなかった。さらに10年を経た,明治27年(1894)には,営業者48戸,搾乳牛頭数102頭,搾乳量302石余に達した。その後,時勢が移り,生活程度が高まり,牛乳の需要も又多くなってきて,明治の末には搾乳場192カ所,搾乳牛頭数1,000余頭,1カ年の搾乳量4,500余石に達している。その後大正年代には,搾乳場,搾乳牛ともに減少したけれども,乳牛の能力が改良せられ,牛乳生産量はかえって増加し,大正12年(1923)には5,200余石に達した。しかし,まだ本県の人口からみて十分需要をみたすところまでは行かなかった。牛乳の需要の比較的多かったのは,岡山市を中心とした県南部地方であった。牛乳需要量の少ない美作および備中地方の状況をみると,平素牛乳を飲むものは極めて少数であって,母乳の出ない乳児か病人に飲ませる程度であった。それでも,夏季になると多少消費が伸びた。また養蚕期に幾分需要量が増加した地方もあった。しかし,津山,高梁のほかに,乳用種雄牛がいなかったため,これらの地方の人は,止むなく和牛の種雄牛を交配して搾乳を続けていた。そのために生産子牛は乳牛として能力が低く,役用としては和牛に及ばず,安い価格で取引きされた。従って,この地方の乳牛は能力が低く,乳量は5〜6升のものが多く飼養されていた。これに加えて余乳対策がなかったため搾乳営業者は不利な立場にあった。
 次に明治17年(1884)以降の搾乳場および乳牛数,搾乳量等を示すと表1−5−1のようである。